春になると桜が咲きます。誰もがそれを「当たり前」のことだと思っています。桜に迷いはありません(桜に聞いたわけではありませんが)。だから毎年同じ時期に同じ花を咲かせます。それは、あたかもそうすることが自分にとって最も美しい姿であるということを知っているかのようです。
それに比べると人間は何をするにも迷ったり、悩んだりするものです。今日の夕食は何にしようかといった日常的なことから、どんな生き方をすればいいのかという哲学的なものまで、ありとあらゆる場面で迷い、悩みながら生きています。だから、桜のように「最適解」を持っている存在にあこがれるのです。
北原白秋の有名な詩に次のようなものがあります。
「薔薇ノ木ニ 薔薇ノ花咲ク 何事ノ不思議ナケレド」
白秋も大いに迷い、悩んだ一人なのでしょう。自分にとって何が最も大切なのかがわかっていれば、こんなに悩むことはないのにという切実な思いが、桜(自然)への憧憬へと繋がります。自分にとっての「当たり前」が何であるかがわかれば、どんなに楽だろうと思います。
けれども、私たちは桜のように生きることはできません。すべての人にあてはまる唯一絶対の「最適解」などあろうはずもなく、答えは、選ぶというより自分でつくりだすものだと言った方が正確かもしれません。となると、人間にとっての「当たり前」を考えることは非常に困難な作業です。だから人間は、今の自分が本来あるべき姿でないと感じて悩んだり、誰もが当たり前にできることができないと思って自己嫌悪に陥ったりするのです。私たちは、児童生徒に「当たり前」であることの大切さを訴えることが多いのですが、そんなとき「そうなれない自分」を責めてしまう子がいるかもしれないことを常に頭に置いておく必要があると思います。イギリスの哲学者、バートランド・ラッセル(1872~1970)がその著、『幸福論』の中で述べているように「なんびとも完全であることを期待するべきではないし、また、完全でないからといって不当に悩むべきではない」1)という前提で話をする責任があるのです。
ただ、見方を変えれば、人間が迷ったり、悩んだりするのは、私たちがそれだけ自由な存在であるということでもあります。決められた「最適解」を持たないからこそ自由に生きることが可能性になるのです。選択する自由があるからこそ迷い、悩むのです。桜(自然)は悩むことはありません。でも、同時に選択肢もないのです。
私たちは、悩んだり落ち込んだりしている子を見かけると、当たり前のように「そんなことで悩む必要はないよ」と声をかけます。でも、もしかしたらその子は、「やっぱり自分は〝そんなこと〟で悩むような弱い人間なのだ」と受け止めているかもしれません。
そういう子には「悩んでいるのはあなたが自由である証拠なんですよ」というメッセージが必要なのだと思います。
(作品No.212RB)
1)小川仁志(2021)『バートランド・ラッセBル幸福論 競争、疲れ、ねたみから解き放たれるために』NHK出版、p52