本物の音

先日、佐渡裕さんが指揮するコンサートに行きました。私はオーケストラや管弦楽に特別興味があるわけではないのですが、家族がチケットを申し込むときに「あなたも行く?」と訊かれて思わず「行く」と言ってしまったのです。当日になって面倒くさくなって「行く」と言ったことを半ば後悔していました。私は、まあこんな機会は滅多にないので、一度くらいは聴いてみてもいいかと自分を納得させなければなりませんでした。

 しかし、始まってすぐに私の気持ちは大きく変わりました。まるで音楽のわからない(音楽がわかるという言い方がいいのかどうかわかりませんが)自分がぐいぐい引き込まれていきました。

 そこで奏でられる「音」は、音の周りを何か柔らかくふわふわした温かい何かで包まれているように聞こえてきました。これは、おそらく生の演奏でないと感じられないものだと直感しました。

 特に、若干20歳で佐渡さんから「天才」と認められた谷口朱佳さんの演奏は圧巻でした。私は今まで演奏というのは、演奏者が楽器を使って音を出すものだと思っていた(常識的にはその通りです)のですが、彼女の演奏する姿を見ているとそうではなかったのです。

 まるでビオラに当てられた弓が意思をもって自ら動いているように見えたのです。弓に擦られたビオラの弦とビオラ本体が一つになって自らを表現しているように見えるのです。

 楽器の個性を最大限に生かし、作曲家の表現したかったことを余すところなく音に託すためには演奏者は脇役のようになるのです。これが本物の本物たる所以(ゆえん)なのだと思うと沸き起こってくる感動を抑えきれませんでした。

 谷口さんは3歳からヴァイオリン、14歳からビオラを始めたとのことですから、かなりの年月をかけて努力を積み重ねたに違いありません。だからこそ本物の「脇役」に見える境地に達することができたのでしょう。

 教育は本質的にある程度の強制がさけられない営みです。必要な知識や技能を身につけさせるためには、何もかも自由にさせるわけにはいきません。また、本当の意味で子どもの個性を伸ばすためにも、あるいは人として基本的に身につけなければならないことを伝えるためにも一定の規律は必要です。けれども、最後の最後は子どもの「自ら前に進む力」を信じるしかありません。

 教育者の最終目標は、子どもの「脇役」になることなのかもしれません。演奏者から「脇役」に少しずつシフトしていくことの中に、教育者の大きな喜びが含まれているような気がします。

 ともあれ、あのとき「行く」と言って本当によかったと思いました。

(作品No.227)

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