若い先生は「楽」をする?

最近、意識して歩くことが多くなりました。退職して毎日が日曜日状態になったので運動不足解消のために始めました。歩いていると、いろんなことが頭に浮かんできます。その日は、若い頃に聞いた、ある落語家の言葉を思い出しました。

 「最近、健康のためにジョギングをやる人が増えているそうです。中高年以上の年齢の人がやるのには何も思いませんが、若い人でやっているのをみるとどうかと思います。だって、若い人は基本的に体力もあって元気です。若者が健康のためにジョギングするなんて信じられない。」

 若い人は、どうやったら楽ができるかを考えるのが普通だと私は思います。「楽」というとさぼっているかのように聞こえるかもしれませんが、そうではなく「合理的に考える」という意味です。すべての若者がそうだとは言いませんが、無駄なことはしたくないと思うのが普通の姿だと思うのです。

 最先端の流行や考え方を取り入れるのも若い世代です。新しいものへの好奇心が旺盛であり、それを行動に移すことへのためらいも少ない。また、同じことをするなら、短時間で終わらそうとする合理性もあります。私のような年配の世代からすれば、そういうところに危うさを感じたり、単に楽をしようとしていると受け取ったりしがちです。そして、「最近の若い奴は・・・」と愚痴ったりもします。

でも、こうした若者の特性は、さまざまな場面でさまざまな改革を推進する原動力になるのも事実です。最先端の技術をいち早く取り入れようとするのは、同じ仕事をどれだけ短時間でできるかという意識があるからです。大げさな言い方かもしれませんが、世の中の進歩はそうした若い人の感覚によって生み出されてきた一面を否定することはできないと思います。

 確かに、何でもかんでも楽をすればいいとは思いません。しかし、時間をかけることそのものに意義を感じているベテランよりははるかにましです。

 市教委で勤務していたとき、かつて市が独自に実施していた教師自作の「夏の友」(正確な名称は覚えていませんがたぶんこんな名前だったと思います)という夏休みの宿題の冊子を復活させようとする動きがありました。当時学校教育課の課長だった私は、市長同席の予算委員会で財政の責任者(役職名は忘れました)から「なぜ、あれ(「夏の友」)を復活させないんだ」と、ほぼ恫喝に近い言い方をされました。財政の責任者の言い分はこうでした。「教師が楽をしようとばかりしていてどうするんだ。子どものためにもっと汗をかけ」

 しかし、かつて実施していた「夏の友」は、単に教師が問題を作成すれば済む問題ではありませんでした。設定した問題の一つ一つに対して著作権の許諾を得る必要があったのです。教員が校種別、教科別等にチームを組んで問題を作成し、その一つ一つに教育委員会は著作権者に許可をとる手続きをしていました。例えば、国語の長文問題をつくるとすれば、その元になっている文について著作権上の許可が必要になります。その文を使って、どんな設問をし、どんな答えを正解とするかを含めて許可が必要となります。作者の意図と違う解答例を出せば当然却下されます。許諾が得られなければ問題作成は最初からやり直しです。膨大な労力です。ならば、問題文自体から作ればいいというかもしれませんが、それでは文学的に価値のある作品は使えません。子どもたちが教科書以外の名文に出会える機会を奪うことになります。

 それでも何らかの効果があるならいいですが、さほど効果があるものではありませんでした。私は、その委員会に出席する前に、他の課の課長から「夏の友」の復活について指摘されることをあらかじめ聞いていたので、過去の冊子の内容や当時の予算、その効果を調べてみました。すると、はっきりしたのです。「夏の友」は、十年間ほど継続して作成・配布していましたが、その十年間の全国学力学習状況調査を調べてみると、最初の数年は平均解答率がなんとか横ばい状態でしたが、最後の方では明らかに下がっているのです。 

 しかも皮肉なことに、実施をやめた次の年に大きく向上していたのです。おそらく「夏の友」と学力(あくまでも全国学力学習状況調査上の数値ですが)は、ほとんど関係がないことが容易に想像できました。しかも学校現場の先生方に聞いてみると「あんなもの、ちょっとできる子なら一日あれば充分終わらせることができる」というのです。実施に要する予算は一回の実施で300万円以上。たった一日のために、しかも何も効果も確認されていないのにもかかわらず、それだけの予算を毎年計上していたのです。そんな状況をしっかり検証もせず、財政の責任者は市長の前で堂々と「汗をかけ」という精神論をぶつけてきたのです。その委員会で、「なぜ実施しないのか」と聞かれたら、実施していたときの「負の成果」について主張しようと資料は準備していました。しかし、私に反論する時間は用意されませんでした。

 当時すでに、ほぼ同額の予算でインターネットを活用し何度でも繰り返し使えるドリルが作成でできるソフトもあり、近隣の教育委員会ではすでに導入していました。私は、予算案を出すときにそのソフトの導入を請求しましたが、却下されました。「また、楽をしようとしている。何度言ったらわかるんだ」というのがその理由でした。

 どうすれば子どもたちの学力が向上するのか、「子どもを真ん中に置いて」考えれば、労力ばかり多くて大した効果がないものを無理して実施するより、簡単にできて、しかも効果が上がるものを導入するのは当然のことです。しかし、時間をかけて苦労しないものは教育とはいえないとする古い価値観が、せっかくの好機を逃すことになったのです。犠牲となったのは他ならぬ子どもたちです。 

先にも書きましたが、何でもかんでも楽をすればいいとは思いません。先生が手を抜いている姿を子どもたちが見れば、先生への信頼も失うでしょう。でも、楽をすることと手を抜くこととはまったく違います。「夏の友」の編集担当になった学校現場の先生方は、多くの時間を作成のために奪われてしまいました。もし、何度でも繰り返し使えて、理解度によって簡単にその子に合ったプリントが手に入るソフトを使っていれば、編集に携わった先生方はその分、子ども一人一人に細やかに寄り添う時間が確保できたはずです。

 ちなみに、数年後私が課長をやめた次の年、例のソフト導入が決まりました。何年かかけて市内全小中学校で使えるようになりました。なんてこった・・・     (作品No-85RB)

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