ICTと教師の正念場

吹奏楽の定期演奏会に行きました。コロナ禍での開催で不安もありましたが、開会前に舞台袖を通ったとき、袖で出番を待つ生徒のほどよい緊張感と、それをかもし出す素直さに触れてとても心地よく感じました。また、私の姿を見つけて口々に「校長先生、ありがとうございます。」と声をかけてくれました。とても爽やかな気持ちになりました。 

演奏会は終始温かい雰囲気に包まれていました。顧問の人柄もよく出ていて優しい空気が会場全体に広がりました。演奏がよかったのは当然ですが、マスクをして、いじめで自殺したある生徒(本校ではありませんが)が作詞した歌をステージ上で歌う生徒たちの姿にも感動しました。真心を込めて何かを伝えようとし、それが伝わる瞬間を経験することはこんなにも感動的なのです。これこそが学校の本当の魅力なのだと思いました。そして、何から何までコロナで中止にすることにも違和感を覚えました。生徒の命を守るためには仕方がないことも重々わかってはいますが、このままでは学校の「らしさ」が薄まっていくような気がしました。

 学校は変わらないといけない時期を迎えています。皮肉にもコロナ禍によって一人一台のタブレット普及が加速し、一年以上早まりました。これからの時代に「個」の学習や成長を支えるには欠かせない取り組みです。ただ、ICTは人間同士の相互のふれあいをどこまで保障できるのでしょうか。それは、そうした視点とある種の危機感を同時に持ってICTの導入を考えている大人がどれくらいいるかで決まるような気がします。

私は、昨年度(令和2年度)から2年間、市の情報化推進委員会に代表校長として参加しました。その第一回目の委員会で私は次のように話しました。

 「タブレットの活用の推進は、待ったなしのところまできています。でも、これが浸透するまでの間に、学校の存在意義をしっかりと考えておかなければいけないと思います。私たちは、この取組が学校教育の根幹に関わるものになるという意識を持たなければなりません。」

 ICTは一人一人の生徒の効率的な学力向上に大きく貢献するでしょう。また、進みゆく情報化社会の中で、たくましく生き抜く子どもたちを育てるためにも積極的に取り組まなければなりません。不登校の児童生徒が増えている中、そうした生徒への学力保障のためにも有効となるでしょう。また、「使いこなせない」ことも許されなくなります。しかし、同時に私たちは、あくまでも「個性」や「自分らしさ」が他者との相互作用によってはじめて成立するということや、生身の人間同士がかかわりあうことの重要性をどこまで地域や保護者に「学校にしかできない魅力」として訴えることができるかを考えておかなければいけません。この取組が、教師が教師の手で「登校しなくてもいい学校教育のシステム」を生み出す可能性もなくはないのです。それが本当に子どもたちにとって豊かな人生の礎となるのかどうかを真摯に考えなければいけません。私たち教師にとっての正念場はもうそこまできています。特に公立学校は、学校に通いたい、通わせたいと思わせる魅力が創り出せるだろうか。子どもたちの心のこもった演奏を聞きながらそんなことを考えていました。令和3年8月28日初稿、後日改

(作品No.118HB)

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