学校はいつも「丸腰」

学校にはさまざまな問題が山積しています。いじめの問題や不登校の問題はもちろん、古い指導観に囚われた教員の意識の問題(暴言や体罰などを含む)、教員の超多忙化の問題、虐待やヤングケアラーの問題(これは福祉の問題でもありますが、結局学校が解決の窓口にならざるをえません)など挙げればきりがありません。私が最後に勤務していた中学校では、そのすべてが網羅されているような学校でした。

でも、何といっても一番神経をすり減らしてきたのは、子どもの命の問題です。これは、先に挙げたそれぞれの問題と密接にかかわっています。決して、単純な問題ではありません。深刻な生徒指導上の事案が毎日のように起こる学校では、それらの多くが子どもの命に直接関わる可能性があるのです。

例えば、家出をした生徒がいたとして、私たちが一番に考えることは「生きていてくれ」ということです。多少のトラブルはあっても、あるいは警察に保護されるような事案であっても「とにかく生きていてくれたら何とかなる」という思いで先生方と必死に対応してきました。幸いにして、その中学校では私が勤務していたときに自ら命を断つ子はいませんでした。しかし、紙一重のことも数多くありました。

教師がどんなに誠実に子どもとかかわり、何かあったときにでき得る限りの対応をしたとしても、最後の最後は子どもを信じるしかありません。それはもう「祈り」に近いものです。あらゆる手を尽くしているつもりでも、私たち教師に最後に与えられるのは「祈り」しかないのです。もし、魔法が使え、願い事がただ一つ叶うなら「自分の学校から自ら命を断つ子が出ませんように」とお願いするだろうと真剣に考えたことは一度や二度ではありませんでした。生徒指導上の問題がそれほど多くない学校の関係者からすれば「何を大げさに」と思われるかもしれませんが、これが「困難校」と言われる学校の現実なのです。こういうとき私は、教師というのはいつも「丸腰」だと感じます。喩えが適切かどうかはわかりませが、まるで「丸腰」で戦場の最前線に立たされているようなものなのです。決定的な危機回避手段はほとんど持ち合わせていません。そこでは、これまでの経験を持ち寄り、一人ひとり違う生徒に最適な対応は何かをそのときそのときに迅速に判断し続けるしかないのです。

仮に、リストカットをした生徒がいるとします。専門家の中には「リストカットは生きていることを確認しようとする行為だから、むやみにやめなさいというのは逆効果だ」という人もいます。でも、それを信じて特に何も対応しなかった結果、本人には死ぬ気がなくても、うっかり深く切り過ぎて大量出血となることもあります。もし命を落とすようなことがあれば、悔やんでも悔やみきれません。「様子を見る」という判断は問題を先送りする消極的な方法だと思われがちですが、実はかなりの勇気がいることなのです。そういう場合、専門機関に通告しますが、その専門機関が現状ではパンク状態のため、かつては比較的柔軟に対応してくれていた子ども家庭センターなども「すぐに命の危険にさらされている場合でなければ保護できない。まずは、市町の児童福祉に相談してください」として取り合ってくれなくなってきました。一度や二度のリストカットくらいでは保護の対象にならないことが多いのです。センター側からすれば地域全体から数えきれない通報があるわけでしょうから、緊急性の高い順にしか対応できないのもわかります。しかし、ここ数年では市町の児童福祉からの通報でないと基本的に対応してくれません。学校が直接通告しても門前払いとなります。でも、市町の児童福祉課としても強制的に保護する権限はなく、その場所も確保されていません。結局対応は学校に委ねられます。

そして、仮に原因が学校になかったとしても子どもが自ら命を断てば、必ずマスコミは「いじめがあったんじゃないか」と勘ぐってきます。明らかないじめがあって、それを認知していたにもかかわらず放置していたとか、そういう事実を隠蔽しようとすることは絶対にあってはならないことです。でも、大規模校にあって、しかも「超」がつくほど多忙な勤務状態で一人ひとりの心の変化をすべて把握するのは至難の業です。それでも、ひとたび事が起これば学校の責任は厳しく追及されます。マスコミが騒ぎ、周囲がざわつき始めると、子どもたちの動揺は激しくなります。私は自校の生徒が命を落とすという経験を三回しました。中学校の教諭時代に二回。もう一回は小学校の教頭時代でした。いずれもいじめなど学校の問題によるものではありませんでしたが、それでも昨日まで一緒に生活していた友だちが突然いなくなる衝撃は子どもたちにとって耐え難いものがあります。精神的なバランスを崩して生きる気力を失う子も出てきます。そういう場合、県や市からカウンセラーが増員されますが、それも一時的な対応で終わってしまうこともしばしばです。

そして、管理職、特に校長は教員も守らなければなりません。自分のクラスの子が自ら命を断ったときの心労はとてつもなく大きなものです。世間では、一切合切すべてを公表せよと迫ってきます。教師に問題があった場合(体罰や暴言など)なら仕方がないと思いますが、そうでない場合でもすべてつまびらかにするように迫られます。それが、当の教員にとって、あるいはその保護者にとってどれほどの重荷になるかを考えたとき、ある程度の情報統制をせざるをえないときもあると思うのが普通の校長です。時にそれが「隠蔽」と言われることがあっても校長だけが責められて済むならそれでいいと考えてしまうのです。

それなら、そういうことも含めて説明すればいいと言われるかもしれませんが、説明できない理由を説明すること自体がすでに説明していることになってしまうというジレンマに陥ることも多いのです。また、そういう話を世間が本当に冷静に受け止めてくれるかどうかわかりません。すべてを話す方がよほど校長としては楽なことです。でもそうすると、該当する教員は教職を続けられないほどの痛手を受けることもあります。場合によっては保護者が根拠のない誹謗中傷を受けることもあります。何度も言いますが、これは教員に誤った言動がなかった場合の話です。落ち度があった場合は、全面的に情報を公開し誠意を持って謝罪すべきです。

学校は今、いろんな面で相対化が進んでいます。学校に対するまなざしも大きく変わりました。それは、多様化する社会のなかでは仕方がないと思います。また、相対化によって学校に意見を言いやすくなっている面もあり、それが必ずしも悪いこととは言えません。これまでの学校はどちらかと言えば閉鎖的で、教育的意義という大義名分をもって、頑なにこれまでの指導方法を変えようとしなかった責任も大いにあります。だから、教員の意識も含めて制度的な改革も進めなければならないと思います。ただ、本当に学校側の意識を変えようとするなら、学校側の本音も冷静に受け止める土壌が社会になければならないはずです。それがないと感じるから現職の校長や教育委員会の口は固くなり、問題の本質に迫れなくなるのです。私も現役のときには、こんなことを書き示すなど絶対にできませんでした。

文部科学省もこれまでにくらべれば、わかりやすい教員向けのパンフレットなども積極的に出しています。学校側の本音に近いことも踏まえてある点は評価できると思います。書いてあることについて基本的に異論はありません。でも、そこには理念と結論しか書かれていません。今、学校が求めているのはそんなわかりきった内容ではなく、何をどこまでやれば学校はその責任を果たしたことになるのかという指針です。ここでいう指針とはマニュアルに近いものです。「いじめ防止対策推進法」の施行を受けてほとんどの各学校には「いじめ対応マニュアル」が作成されました。私が勤務していた学校も「チェックリスト」を含めた詳細なものをホームページに掲載していました(現在もあります)。「超」多忙な困難校を救うには詳細なマニュアルは必須です。それを全職員が理解し、行動に移すよう指導するのは管理職の役目でしょう。マニュアルがなければ教師による指導や対応を際限なく続けざるをえない今の状況を打破することはできません。でも、いつもどこかに不安があります。それは、そのマニュアル通りに対応すれば学校の責任が本当に回避されるのかという不安です。

「困難校」では(いじめ防止対策推進法施行前から)ストラテジー(対処戦略)として、とにかく専門機関や警察に通告することが多くなりました。連絡された専門機関にどんなに嫌がられても、そうでもしないと一日にいじめと思われる事象が重複して発生することも珍しくない「困難校」では、教員の身がもたないのです。それにしたって一時的な精神安定剤くらいの効果しかありませんが。

ようやくではありますが、近年教員の働き方改革が進められようとしています。それが、教職希望者の激減という外からの力によって切羽詰まった結果であったとしても、やらないよりははるかにましです。社会の学校化はもう限界に達しています。背負いきれないものを背負わされている学校の現実に目を向けなければ、最終的に救われないのは子どもたちです。限界を超えた重荷を一つずつ減らし、その代わりに持てる荷物については今まで以上にしっかりと責任を果たす、そういう流れをつくっていかなければいけないと思います。

なお、いじめについての私の見解については、別の回に少しずつ示していこうと思っています。

(作品No.125RB改)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です