現在、全国各地で校則の見直しが進められています。特に制服については、SDGsの5番目の目標に「ジェンダー平等を実現しよう」(GENDER EQUALITY)と掲げられているように、もはや、学校の規則の改革というレベルではなくなっています。そして、県内でも(あるいは市内でも)多くの学校が生徒や保護者の希望を取り入れて変革を進めています。こうした動きはこれからの学校のあり方を考える上で非常に重要です。
現代社会は多様化の時代だといわれます。それは、多くの価値観や個性があることを認めようとする社会全体の雰囲気のようなものによって支えられています。以前、このコラムでも書きましたが、世の中に唯一絶対の真理があるとはかぎりません。国や地域によって大切にする価値は異なりますし、同じ国にあっても一人ひとりの考え方はそれぞれに違います。社会の多くの人が同じ価値観を持ちやすかった時代は、それに従っていれば何とかなるという安心感を得ることもできました。そういう意味では人々の迷いは少なかっただろうと思います。その反面、マイノリティ(少数派)の価値は常に軽視されやすく、そこから生じる偏見や人権無視の言動によって苦しめられる人も少なくなかったでしょう。多様化はそういう人々の苦しみを救うという意味でも社会に大きな貢献をしていると言えます。
ただ、学校が多様化する価値すべてを受け入れることはかなり難しいでしょう。真っ向から対立する価値が同時に求められることもあります。だから、学校が何か一つの選択をしようとするとき、必ずそれに同意しない人は存在します。それでも、学校は何らかの判断をしなければなりません。ここが辛いところです。そこで学校はあらかじめ一定のルールを設ける必要があります。それがなければ、学校は混乱するだけです。しかし、そのルールそのものが一つの選択(価値)である限り、すべての人を納得させることはできません。
じゃあどうすればいいのか。
結局のところ、ルールを生徒と共に創り出すしかないと思います。これからは、学校が一方的に決めたルールを生徒に守らせるという図式は崩れていくと思います。冒頭に挙げた制服や校則の見直しも、これからは生徒の意見を取り入れることが必須になっていくでしょう。以前、スクールロイヤーの人(弁護士)に聞いた話ですが、校則は学校長の裁量権の中にあるけれども、そのルールの妥当性や決め方に不当な部分があれば、法的に問題が生じる場合があるそうです。
そもそも法的に問題でなくても、この多様化の時代に一方的に学校がルールを押しつけることはそう長くは続かないでしょう。
ちなみに、私が通っていた中学校では生徒会がかなりの力を持っていました。例えば、各部活動の予算は、総額こそ学校が決めていましたが、それをどう配分するかは生徒会の予算委員会で決めていました。運動部、文化部の代表者を集めて、生徒会執行部の出した原案に対して協議する場があったのです。今では考えられないようなことですが、決められた枠内で各部が予算争奪戦をやっていたのです。まさに喧々諤々1)たる会議となりました。例えば、野球部の主将が茶道部に対して「茶道って礼儀作法を学ぶためにやっているんだろ。だったら、本物のお茶なんか使わなくてもいいじゃないか(その分の予算を回せ)」という、それこそ「無茶」な意見が出ます。それに対して、茶道部も「お茶を使わない茶道はボールを使わない野球と同じですよ」などと反論していました。一応昨年度の予算との変動率の限界値は決めていたと思いますが、部員が大幅に減った部などは結構削られたりもしました。そこで決められた予算が実際に執行されていたのです。意外と遺恨を残すことはなかったと思います。中学生でも任せればそこそこやれるものです。
また、かつては子どもの世界には子どもたちがつくるルールが存在していました。そこは大人が介在しない世界でした。例えば、放課後高学年だけで野球をしていることころに低学年の子が来て、入れてほしそうにしていたとします。その子をどちらのチームに入れるかでもめます。自分のチームに入れたら不利になるのは明らかです。そこで、ハンデを考えます。その低学年の子が打席に立つときは投手がゆるい球(下手からふわっと投げる)を投げることにしたり、守備ではその子がゴロを取りさえすれば(一塁に投げなくても)アウトとするなど、その子を生かすために特別ルールを即興でつくります。そうすることでその子を遊びの中に入れてやることができます。このように子どもの世界ではルールは固定されたものではなく、そのときの状況によって絶えず変化するものでした。
これからの学校は、生徒に関わるルールは生徒が考えるようにする必要があるでしょう。その可能性を持たせることで、学校を自分たちの力で変えることができるという自覚が生まれます。そもそも服装や髪型などは教育にとって必須のものではありません。服装や髪型を自由にすれば学校が荒れるという人もいますが、それは幻想だと思います。かつての校内暴力が激しかったときのイメージで語っているだけでしょう。そもそも教員は普段から「見かけよりも中身で勝負せよ」と子どもたちに教えているわけですから、目に見える服装や髪型が変わってもやるべきことをしっかりやっていればそれでいいわけです。
自分たちでルールを決める過程で子どもたちはいろんなことを学びます。それこそ「学校が荒れる」と心配している先生をどう説得するかも考えさせればいいと思います。また、保護者が反対した場合はどう説明するか、生徒の意見をどういう手順でまとめるか、改正したルールを再度見直すシステムをどうやってつくるかなど考えなければいけないことは山ほどあります。その一つ一つが生徒にとって貴重な学習の場になるはずです。そして、自分たちが決めたルールだからこそ守ろうという意識も高まります。
最近の若者に政治離れが進んでいると批判的に言う人がいますが、それは小中高の12年間という長い時間を、変えられないルールの中で過ごしてきたがために「自分たちで変えよう」という意識が育っていないからです。若者を責めるのはお門違いだと思います。
(作品No.172RB)
1)喧々諤々:もともとは「「喧々囂々(けんけんごうごう)」と「侃々諤々(かんかんがくがく)」という別々の言葉が混ざった誤った表現」(辞典・百科事典の検索サービス – Weblio辞書 国語辞典)ですが、近年では十分に定着していると判断し使用しました。