好きこそものの上手なれと言います。野球が好きな人は誰に言われなくても練習するでしょうし、日曜大工が好きな人は毎日でも何か作っていたいと思うでしょう。好きだからこそ、それにかける時間が増えるので、当然経験も豊富になりますし、必要な知識や技術も自然に身につくでしょう。
しかし、この「好き」ということが厄介なことになることもあります。以前県教委に勤務していたときの上司に、日本全国の城郭について大変造詣が深い方がいました。その人はお城の話をするときは実に生き生きとしていました。上下関係の厳しい世界でしたから、部下の私はそういう話をただ聞くしかありません。しかし、お城に全くといっていいほど興味がない私は、いかに嫌々聞いていることを悟られないようにするかに細心の注意を払っていました。そういう時間は実に長く感じます。
私たち教員の仕事は、話すことを抜きにしては語れません。話術に長けていることは大きな武器になります。「好きこそ・・・」の諺に従えば、話すことが好きな人は話術に長けていることになります。ところが、そう簡単にいかないのが難しいところです。
精神科医で長年青少年の心のケアに携わってこられ、何度も学校に出向いて研修会の講師を務められた実績のある吉田脩二氏は教師の話し方について次のように述べています。
「いつも思うのだが、一般に教師は話が下手である。ただし、決して朴訥ではなくて、むしろ多弁である。多弁であるが内容が少ない。まわりくどくて、しかも断定しないから、結局は何を言いたいのかがわからなくなってしまう。」(吉田脩二・生徒の心を考える教師の会(1999)『不登校 その心理と学校の病理』、高文研、p201)
実に厳しい言葉です。でも、あながち的外れとも言えないようにも思います。教員は一般の人に比べると話が好きな人が多いと思います。その方が長く教師をやる上では有利でしょう。また、経験を積むほどに話のコツがわかってきて「好き」になっていくということもあるでしょう。でも、「好き」になったときに気をつけなければならないのが、この「多弁」や「饒舌」です。
かつて、尊敬する先輩(元中学校長)から教えられたことがあります。
「人前で話をするときに大切なのは、“何を話すか”よりも“何を話さないか”を考えることなんです」
私たちが子どもや保護者、地域の人に話すのは「伝えるべきこと」があるからです。話し好きになることは悪いこととは言えませんが、話すこと自体が目的化してしまっては、本末転倒です。こうなると独りよがりの傾向、つまり教員の自己満足で終わってしまいかねません。特に、自分の好きなことや得意分野になるほど、あれも言いたいこれも伝えたいと欲を出し過ぎて、いわゆる「枝葉」が多くなり、最も大切な話の「幹」の部分がぼやけてしまいます。しかし、聞く側は「枝葉」の話をさほど聞きたいとは思っていません。
つまり、わかりやすくて聞く人を引きつける話をするためには「捨てる勇気」が必要なのです。私は、指導主事や校長の立場でさまざまな人の前で話したり挨拶したりする機会をたくさんいただいてきましたが、自分が納得できる話ができたのは、ほんの数回しかありません。それは、私が「目の前の人が何を欲しているか」に寄り添いきれずに、自分が話したいことを優先してしまった結果なのだろうと思います。「自慢話」や「苦労話」が聞いていて面白くないのは、それが話し手が自分の満足のために話しているからです。置き去りにされた聞き手は、適当に相槌を打って聞いているように振る舞ってはいても、頭の中では他のことを考えているでしょう。
それに気づかずに話し続ける醜態だけはさらしたくないと思ってはいるのですが・・・
(作品No.168RB)