問いの立て方

大量の情報にあふれる現代において、非常に重要になるのは「信憑性」です。その情報が信じるに値するかどうかを判断するためには何らかの根拠が必要ですし、そうした根拠の「信憑性」を見極める力が必要となります。しかし、これがなかなか難しい。

 根拠の「信憑性」を見極める一つの方法として「問いの立て方」に注目することは、結構、有効です。

 例えば、「学級のルールをしっかりと守れるクラスは学力が伸びる」という情報があったとします。私たちは、この情報に対して、「その通りだろう」と思う人もいれば、「それは一概には言えないだろう」と感じる人もいるでしょう。そして、なぜそんなことが言えるのかということに関心が向けられます。このとき気をつけなければならないのは、こうした調査が、暗に二者択一を求めているということです。

 つまり、知らず知らずのうちに私たちは規律と学力との関係はあるのか、ないのかという「二者選択」に誘導されてしまっている可能性があるのです。しかし、この調査の対象となったクラスの担任がどんなタイプの人なのか、あるいは学級の人数がどのくらいなのかなど、他の要因によって学力が左右されることも考えられます。そのことに目を向けなければ、学級の規律が学力に影響するのではないかという閉じられた思考に陥ってしまいます。

 どのような調査や研究でも、ある種の限定が為されているものです。学力と規律に関する調査においても規律とはどういうもので、学力とはどういうものとするという前提があるはずです。その限定された範囲内で示されたものが結果として示されているわけです。

 最近、エビデンスという言葉をよく耳にするようになりました。これは、数値や指数で表される科学的根拠という意味として用いられます。確かに何の根拠もない話は誰も信用しませんから、エビデンスは周囲の納得を得るためには欠かせないものです。それでも、エビデンスそのものが、調査等による実証的結果である限り、一定の限定を避けられるものではありません。

 私はそうしたエビデンスを否定するわけではありません。高度な統計的処理を行うことによって生み出されるデータは非常に貴重なものです。しかし、「量的」な分析だけでは測れないことが多い教育の世界では、私たちの経験の積み重ねから生まれる「質的」な感性もエビデンスとして大切に扱うべきだと思うのです。私たちに必要なのは、その問いの立て方が課題解決のために妥当なものであるかどうかをしっかりと吟味することだと思います。

「……高いエビデンスを誇るとされる量的研究は、まさにそれゆえにこそ、実際の教育政策や教育実践にいくらか無批判に受け入れられてしまいやすい傾向がある。」1)

 また、現象学の提唱者であるフッサールは、さらに厳格な言い方をしています。

「通常おこなわれている明証性(Evidenz)への訴えはすべて、それによってそれ以上遡って問うことが断ち切られるのであるから、理論的にみれば、神がみずからを啓示するといわれる神託に訴える以上のものではないことになろう。」2)

 つまり、「ある科学的エビデンスを客観的真理の動かしがたい証拠として受け取るとするなら、それは「神託」を信じるのと変わらない」3)というのです。

 フッサールの記述は、極端な言い方に聞こえるかもしれませんが、全知全能の神と同じように科学的根拠を神聖化してはならないという警告として受け止めようと、私は思っています。

(作品No.200RB)

1) 苫野一徳(2022)『学問としての教育学』日本評論社、p37

2) フッサール(1992)細谷恒夫/木田元訳『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』中央 

  公論新社、p344(前掲書、p145より重引)

3) 前掲書、苫野、p145

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