家を建てるときには、まず基礎を固めます。最近はコンクリートで基礎を作るのが通常の方法です。その上に柱を立てるのですが、柱を載せただけでは安定しないのでボルトなどで、柱と基礎をしっかりとつなぎます。私は門外漢なので、詳しいことはわかりませんが、それでも自分の家を建てるときには、どんな基礎を作っているのかを確認にいきました。
この基礎がしっかりしていないと、地震などの災害のときに家が大きなダメージを受けやすくなると思ったからです。
当然のことながら、コンクリートの面と、柱の断面は同じように水平(まっ平)になっているでしょう。もし、どちらかに凸凹があれば、その分接地面積が減って、いくらボルトでつないでも不安定になってしまうでしょう。
ところが、法隆寺が建立された千三百年前の時代は、そうではなかったというのです。
「法隆寺三重塔、薬師寺金堂、同西塔など、ふんだんな檜を使って堂塔の復興や再建を果たした最後の宮大工棟梁」1)といわれる、西岡常一氏の話です。
当時の建造物の基礎は礎石(そせき)と呼ばれる石を使用していました。できるだけ平らな面をもつ石を使ったのでしょうが、その石の表面を平らに削ることはしなかったといいます。まず、その石の重心を見極めて、最も柱をしっかり支えられる場所を探します。そして、その礎石の面に合わせて柱となる檜の断面を合わせて加工したのだそうです。
こういう方法を「ひかりつけ」というのだそうですが、この「ひかりつけ」によって大きな地震にも耐えられる強度が保たれたといいます。
そして、信じられないことに、地震で多少、礎石と柱がずれたとしても時間がたてばもとに戻るのだそうです。つまり、建物自体が自分の力で元の安定した状態に戻すというわけです。これは驚くべきことです。こういうことを、当時の宮大工はすでに知っていたというのです。
なぜ、柱を石の上に載せるだけでボルトのようなものでつながなくても、千年を越える間びくともしない強度が保たれたのでしょうか。
西岡氏によれば、それは「遊び」があるからだそうです。ボルトとコンクリートを密着させると、ある一定の負荷に対しては強さを発揮しますが、強く結びついている分、建物にもその衝撃がそのまま伝わってしまいます。しかし、「ひかりつけ」工法だと礎石の上で柱が微妙に動いてずれるわけです。それが緩衝となって建物に伝わる衝撃を和らげるというのです。
近年のビルなどの建築は耐震構造から制震構造へと進化し、ビルの内部に制震ダンパーと呼ばれる装置を組み込み、地震の際にその揺れをダンパーに吸収させることで地震が建物に与えるダメージを軽減する工法が採用されることが多くなったようです。まさに、「ひかりつけ」と同じ発想です。このことに千年以上前に、当時の日本人はすでに気づいていたのです。
この話は、学校教育にも通ずるものがあると思います。
かつて、「神戸連続児童殺傷事件」や児童生徒の殺傷事件が相次いて起こったとき「ゼロ・トレランス」方式を生徒指導に取り入れようとする動きが起こりました。
「ゼロ・トレランス方式(ゼロ・トレランスほうしき、英語: zero-tolerance policing)とは、割れ窓理論に依拠して1990年代にアメリカで始まった教育方針の一つ。「zero」「tolerance(寛容)」の文字通り、不寛容を是とし細部まで罰則を定めそれに違反した場合は厳密に処分を行う方式」(ウィキペディア)
つまり、校則を厳格に適用し、一切の例外を認めない指導です。それは、まったく「遊び」を許さないやり方です。
日本でも、文部科学省も導入を検討していた時期もありますし、実際に取り入れた学校も多くありました。しかし、その厳格さのあまり発祥の地であるアメリカでさえ批判が強まって、ゼロ・トレランス方式は長くは続きませんでした。
いま、社会は多様化が進んでいます。その中で、学校はまだまだ古い体質が残っており、さまざまな場面でその矛盾が表面化しています。
学校に理不尽な要求をする保護者は、モンスターと言われたり、クレーマー扱いされたりすることもありますが、その中には多様化を受け入れきれない学校の姿勢に起因するものも少なくないように思います。学校に「遊び」が少ないことが保護者にとってみれば不満の対象になるのでしょう。
「遊び」の少ない教育は、どうしても子どもたちの個性を軽視してしまいます。この個性につながる話として、冒頭の西岡氏は次のように述べています。
「飛鳥建築や白鳳の建築は、棟梁が山に入って木を自分で選定してくるのです。それと「木は生育の方位のままに使え」というのがあります。山の南側の木は細いが強い、北側の木は太いけれども柔らかい、(中略)生育の場所によって木にも性質があるんですな。山で木を見ながら、これはこういう木やからあそこに使おう、これは右に捻じれているから左捻れのあの木と組み合わせたらいい、というようなことを山で見わけるんですな。」2)
南側の木が強いからといって、そうした木だけで千年もつような建造物は作れません。柔らかい北側の木の細工がしやすいという特長も欠かせないのです。
子どもも同じです。それぞれに違った成育歴を持ち、一人ひとり違った個性があります。それを尊重しないゼロ・トレランスが長続きしないのは、当然の結果でしょう。
これからの学校は、どんどん進んでいく多様化の中で柔軟な姿勢を持ち、さまざまな個性を生かせる体制に変えていく必要があるでしょう。
そのためにも、教員にもっと余裕を持たせる国レベルの施策が求められるのです。
(作品No.186RB)
1)西岡常一(1994)『木のいのち 木のこころ』(草思社、巻末筆者紹介欄より)
2)前掲書、p16