不登校はマイノリティか?

「不登校は、もはやマイノリティとは言えない」

先日某市の市長が、ある研修会の開会挨拶で述べた言葉です。その市長は、自分の市内の不登校の人数を具体的に挙げながら、不登校児童生徒が急増していることに危機感を表明しました。全国でも不登校児童生徒の数は上昇の一途です。文部科学省が10月27日に公表した「問題行動・不登校調査」(全国の学校を対象。2021年度実施)によれば、「病気や経済的理由などとは異なる要因で30日以上登校せず「不登校」と判断された小中学生は24万4940人」で過去最多となっています。最も多いのが中学校で、中学生全体の4%を越えています1)。これは、コロナ禍の影響を差し引いたとしてもかなりの数です。「不登校」を単純に「問題」とすることには抵抗を感じますが、学校に行けないことによって多くの子どもたちが、悩み、苦しんでいることは確かです。市長が危機感を口にするのも無理のないことでしょう。

それにしても、4%というのは、かなりの数です。全校生徒500人の中学校なら20人が不登校となっていることになります。この規模の中学校の全校の学級数は13クラスあまりですから、各クラス1~2人いることになります。しかも、これはあくまでも平均値ですから、学校によっては3~4人くらいいても不思議ではありません。

ただ、見方を変えれば96%の中学生は登校できているのです。この96%の子どもたちはなぜ登校ができているのでしょうか。実は、それを考えることが不登校現象の根本的要因に迫るために欠かせない視点なのです。現在曲がりなりにも登校できているすべての子どもが、楽しく、充実した学校生活を送っているとは限りません。もしかしたら、大半の子は「グレーゾーン」に入る「不登校予備軍」なのかもしれないのです。

「グレーゾーン」とは、森田洋司氏が『「不登校」現象の社会学』(1991年、学文社)において、登校している子どもたちの学校に対する結びつきの強さ(ソーシャルボンド)は、個々に違っており、いつ不登校になってもおかしくない子どもが一定数いることを明らかにしたものです。そうした子どもたちは、学校に対する弱い絆しか持ち合わせていません。それが何に由来するのかを知ることが、すでに不登校になっている子どもたちへの支援策にもつながるのです。

こうした状況の中、教員は誰もが、不登校を減らすために全力を尽くしています。学級担任が密に連絡をとり、家庭訪問をし、スクールカウンセラーなどの専門家の力を借りながら、校内でのケース会議を開いて対応を協議するなど、可能な限りの対応を行っています。それでも、不登校生徒は増え続けています。なぜか。それは、多くの場合、学校の対応が不登校児童生徒に限られてしまっているからです。それが、対応の基本であることは確かです。また、一定の効果も上げてきたのも事実です。でも、対応を不登校の子にだけに限っていても状況を大きく変えることは非常に困難です。誤解を恐れずに言えば、それはある意味で「対症療法」にとどまっていると言わざるを得ません。つまり、不登校の要因を子どもの「個人」の中にのみ求めようとしては、根本的な要因に迫ることはできないのです。このことは、先に挙げた森田氏が約30年前に、すでに指摘していることです。

不登校に至った理由は、さまざまです。一人ひとり違うと言ってもいいくらいです。でも、大きな共通点があります。それが学校に対する抵抗感です。

その抵抗感の由来が、自分自身の気質の問題であるのか、教員に対するものなのか、友だちに関することなのか、あるいは学級というシステムそのものに対するものなのかは、生徒によって違うでしょうが、どの子にも学校に対する「抵抗感」は存在するのです。もし、何の抵抗感もないのであれば、おそらく登校できているでしょう。重要なのは、その抵抗感は、現在登校できている生徒たちの中にも存在しているということです。だからこそ、登校できている子がどういう理由で登校できているかを細かく分析し、学校に対してどのようなイメージを持っているのかを把握しておく必要があるのです。全校生徒にアンケートを定期的にとったり、教育相談の機会を増やしたりしながら、ぎりぎりのところでかろうじて踏ん張っている子どもたちから学ばなければなりません。そうした子が、今現在、学校に対してどんなことを感じているか、それを把握することがすべての生徒を救うことになるのです。

不登校の原因を登校できない子の中に求めても限界があります。なぜ学校に行けないかを明確に説明できる不登校生徒は多くありません。本人にもよくわからないことが多いのです。何だかよく分からないけれど教室が怖いと感じる子もいますし、何のために学校に行くのか分からなくなっている子もいるでしょう。いずれにしても、体が学校に向かなくなってしまってからでは、本人に冷静に自分を分析しなさいと言ってもできるはずがありません。

だからこそ、「予備軍」の生徒に教えてもらわないといけないのです。そのための第一歩として、瀬戸際に立っている生徒を見つけ出さなければなりません。そのとき初めて学校には、これまで見えていなかったものが見えてくるはずです。学校と生徒をつなぐ力、つまりソーシャルボンドのどこが弱くなっているのかが見えてくるのです。

一部の生徒を除いて、生徒は学校が楽しいと感じられれば学校に来ます。そう思えない生徒に、何がそう思わせてしまっているのか、私たちは謙虚に目を向けなければなりません。

こうしたことを進めれば、これまでの学校の常識を根本から見直さなければならない壁に当たるかもしれません。でも、それを恐れていては、おそらくこれからも教員は増え続ける不登校の対応に忙殺されていくでしょう。しかも、それは「本丸」ではない可能性が高いのです。もし、そうだとすれば教員はただ疲弊するしかありません。

持って回った言い方になってしまいましたが、結局は教員を始めとする学校関係者が、学校のあり方を根本から見直す覚悟をするしかないのです。不登校はもはや単なる「学校不適応」の枠組みではとらえられなくなっています。「不適応」と考える視点は、不登校の苦しみを最終的に個人の責任に委ねてしまうでしょう。なぜなら、「不適応」という言葉が学校が絶対的に正しいという意識によって支えられているからです。「正しい」学校には、適応すべきだという姿勢からは、自分たちのあり方や学校のあり方に目が向けられることはありません。

全校にアンケートをすれば、学校が混乱するだけだと思うかもしれません。解決しようのない問題が出てきたらどうするんだという人もいるかもしれません。でも、だからこそやるべきなのです。そこを避けているうちは、言われのない苦しみを一身に受けてしまった不登校の児童生徒を救うことはできないでしょう。そして近い将来、不登校がさらに増え、抜き差しならない状態になってしまったら(今でも十分深刻ですが)、学校の先生には任せておけないとして、公設民営化などによる市場原理の波に吞み込まれてしまうかもしれません。すでに公立学校離れは進んでいます。それは、必ずしも都市部に限ったことではありません。そうなれば、教育格差は今以上に広がります。そこに、教育の本質は残されているのでしょうか。

冒頭の市長の言う通り、もはや不登校はマイノリティではありません。「グレーゾーン」を含めれば、学校に抵抗感を抱く子どもたちは、すでにマジョリティなのかもしれないのです。

(作品No.178RB)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です