マルトリートメントを失くすために

非常に残念なことですが、教員による暴言や体罰といった〝不適切な関わり〟が連日のように報道されています。

 〝不適切な関わり〟のことを「マルトリートメント」と言うそうです。それは、「「大人の子どもへの不適切なかかわり」を意味しており、児童虐待の意味を広く捉えた概念」1)です。それを学校に当てはめて「教室マルトリートメント」と呼ばれることもあります2)

 いずれにしても、教師にとっては指導のつもりでも、暴言や高圧的な態度は子どもの心を思いのほか深く傷つけてしまいます。なかには、そうした接し方によって子どもが自ら命を絶つ悲劇、つまり「指導死」を生み出す危険性もあります。

 そうした教員は全体からすればごくわずかでしょうが、そのごくわずかな人によって学校や教師に対する信頼が損なわれてしまうことには忸怩(じくじ)たる思いを禁じ得ません。

 1960年から1970年ごろに活躍したアメリカの哲学者ミルトン・メイヤロフは、他者を一人の人格としてケアすることを「最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである」3)とした上で次のように述べています。

「……もし相手が事実上成長していないのであれば、私は相手の要求に対応していないわけであり、したがってケアをしていることにはならないのである。」4)

教育も子どもの「成長」と「自己実現」を期するものです。メイヤロフの「ケア」は、まさに教育そのものであると理解すべきでしょう。

 私たちは子どもに、人として大切なことを伝えたいと願っています。どうすれば、最もよく伝わるのかと悩みます。そして、伝えたつもりが、実は伝わっていなかったということをしばしば経験します。そして、伝わらない子(何度言ってもわからない子)を否定的に見てしまいがちです(私もそうでした)。しかし、メイヤロフによれば、伝わったのなら結果として相手が成長しているはずだと断言するのです。メイヤロフの主張に従えば、伝わらなかったのは「伝わるように伝えなかった」ということなのです。非常に厳しい言葉です。私たちが伝えようと思っていることが子どもにしっかりと伝わる方法で伝えていたら、必ず子どもは成長するはずであり、その成長を実現させることで教師も成長するというのがメイヤロフの立場です。

 ただ、メイヤロフは完ぺきな人間でなければケア(あるいは教育)ができないと言っているわけではありません。ケアする対象(子ども)を「本来持っている権利において存在するものと認め、成長しようと努力している存在として尊重する」5)ことができれば、真のケアに近づくことができると述べています。

 学校におけるマルトリートメントを失せるかどうかは、私たちが子どもを人として尊重できるかどうかにかかっています。

(作品No.211)

1)文部科学省「養護教諭のための児童虐待対応の手引」(平成19年10月)第2章、p8

2)川上康則(2022)『教室マルトリートメント』、東洋館出版社

3)ミルトン・メイヤロフ、田村真・向野宣之訳(1987)『ケアの本質』、ゆみる出版、p13

4)前掲、p90

5)前掲、p13

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