教員になって10年くらいたった時、私は生涯忘れられない校長先生と出会いました。私は、教師のプロ意識をその人から学びました。今回はその先生にまつわるエピソードをご紹介させていただこうと思います。
ある年の入学式当日のことです。真新しい制服に身を包んだ新入生が保護者とともに次々と受付にやってきます。新1年生の担任になることが決まっていた教員は、その様子を見ながら「今年は手がかかりそうだ」とささやき合っていました。髪の毛を染めていた子や、制服をわざとだらしなく着こなす子、何が気に入らないのか終始ふてくされた表情を崩さない子もいました。それは全体からすればごく一部ではありましたが、こういう雰囲気の生徒が周囲の雰囲気を壊してしまうことは少なくありません。
入学式が終わって1学期が始まると、私たちの予想通り、その学年は例年になくトラブルが多く、まさに「手のかかる」学年であると感じました。そんなある日、職員室で同じ学年の先生が「小学校でもっと厳しく躾ていないから、こんなトラブルが多いんだ」と周囲に聞こえるように言い放ちました。仲間の同意を得ようとしているのは明らかでした。若かった私は、安易にその人に同調してしまいました。その様子を見ていた(聞いていた)校長先生が、私たちの近くに来られてこう言ったのです。
「君らは、本気でそう思っているのか? 一旦子どもを預かった限りは、小学校の指導をとやかく言う前に、この子たちが卒業するときに小学校の先生にこの子たちはこんなに成長しましたよと堂々と報告できるようにしようと、どうして考えないんだ。」
その瞬間、誰も何も言えなくなりました。その通りです。おそらく校長先生は、その後に「それがプロだろう」と言いたかったのだと思います。言い訳をする私たちに、前を向きなさいと教えてくださったのです。子どもには何の罪もない、と。
現代は教育受難のときなのかもしれません。課題は山積しています。そうした状況のなかで、プロとしての自覚を持ち続けることは容易なことではないのかもしれません。でも、そういうときだからこそ、私たちは決して子どもを悪者にしてはいけないのだと思います。
先日、教育哲学が専門の広岡義之教授(神戸親和女子大学)が、こんなことを教えてくださいました。
「子どもにとって安全な場所が確保できれば、学校におけるさまざまな課題は解消するだろう。教室を安全な場所にすることが大切だ。それには教師が信頼を伝え続け、子どもにそれを実感させるしかない」
課題の原因を子どものみに求めるとき、そこに信頼は生まれるとは思えません。
(作品No.235RB)