『大学で学生の支援を行う高部大問は、若者たちが「「夢」に押しつぶされていく実態を「ドリーム・ハラスメント」と名づけた。「高校でキャリアの講演をしたとき、ある学生は「夢を持つことを強制されている」と高部に訴えた。「小学生のときに夢を具体的に決めるように強制されて以来、将来の夢という言葉が嫌い」「夢が無いことがそんなにダメなのか」「夢に囚われずに生きたい」というのが若者の本音だという。これはいわば「夢のファシズム」で、現代の若者は、大人の社会が「夢をもたせよう」とすることをハラスメント(虐待)と感じているのだ。』(橘玲,『無理ゲー社会』,小学館新書,2021,6,p28 一部重引)
にわかには受け入れられない内容です。特に、「夢のファシズム」という表現はさすがに極端に過ぎると感じます。しかし、以前「遠くから見る」ことも必要だと書きました。まさに教育に携わる者にとって、この文章ははるか遠くからのメッセージと言えるかもしれません。私たちは、子どもたちに夢を持ってほしいと願ってきました。夢があれば目標が決まり、目標が決まれば日々の努力につながる、そう思って励ましてきました。
つまり、教師が「あなたの将来の夢は?」と聞くのは、生徒が自分の生き方を考えるきっかけにしてほしいと願ってのことです。何も強制しているつもりはありません。例えば、一生懸命サッカーに取り組んでいる子が「将来Jリーグに入りたい」という夢を持っていたとして、その子の夢を教師が知ることで、応援してやりたいと思ったり、「楽しみにしているよ」と声をかけてやったりすることができます。こんなことさえハラスメントと言われたのではキャリア教育なんて事実上不可能であるかのように感じます。
ただ、このような「遠くからのメッセージ」からでさえ、学ぶべきものはあると思います。一つは、現時点で生徒が夢を持っていないことを容認する余裕を持つこと、もう一つは、自分の物言いがステレオタイプになっていないかを顧みることです。
私は、大学を受験するときですら将来何になるのか決めていませんでした。私が「文学部」を選んだのは「文学部」という響きに憧れ、興味があっただけです、父親からは「文学部なんか出ても就職がないし、社会で役に立たん」といって反対されましたが、文学部は国語の教員免許が取れると知ると、あっさりと認めてくれました。そもそも中学生くらいで将来の夢をはっきりと持っている方が少ないと思います。「ゆっくり考えればいいよ」と言える余裕があれば、この大学生も「強制された」とは思わなかったでしょう。
もう一つのステレオタイプの言い方について。この方が重要です。ステレオタイプとは、多くの人に浸透している固定観念や思い込みのことで、国籍・宗教・性別など、特定の属性を持つ人に対して付与される単純化されたイメージのことを指します(例えば、最近の若者は礼儀を知らないなど)。私たちは、自分の経験に沿って何が大切かを判断しています。しかし、それはあくまでも自分の判断であって相手の判断ではないのです。私たちは、「夢は持つべきだ」というステレオタイプの物言いではなく、「夢を持つっていいな」と思えるメッセージを届け続けることが大切なのだと思います。
現代は、選択肢が多くなった分、逆に一つに決めることが難しい時代です。中学生にとって夢を持ちにくい時代になったといえるのは確かでしょう。そうだとしたら、私たちは、そうした子どもたちの「生きづらさ」のようなものにもしっかりと寄り添う必要があると思います。
(作品No.47HB)