エビデンスと教育

最近エビデンスという言葉が多く使われるようになりました。医療の世界や利益を追求する企業では有効だと思いますが、どうも教育の世界に持ち込まれると違和感を禁じ得ません。エビデンスとは「根拠」という意味があるようですが、教育的効果を示すエビデンスはどうやって導くのでしょうか。

 一般的にエビデンスは量的な研究(具体的な数値を用いて結論を出す)によることが多いのですが、教育効果を数値で表すことはどこまで可能なのでしょうか。

 経済界の中心には、教育的効果をもっと明確にするために、文科省は全国学力学習状況テストの結果をもっと国の施策のなかで重視すべきだという人もいるそうです。確かに、テストの結果は点数という数値で表れますが、そもそも学力をどのように定義した上で作られたテストなのか、本当にその定義に沿った問題になっているのかをしっかり吟味しているのでしょうか。

 いうまでもなく、学力はじつに多くの要素を含んだ概念です。どんなに精密に作られたテストであっても、学力全体を図ることは不可能でしょう。学力という概念を経済界から見て有効な内容に焦点化してしまう危険性もあります。そうなると、教育にとって重要な要素である、人間関係の温かさや、将来の生きる力になる思い出などが軽視されてしまいそうです。 

 もともと、研究者の言う学力と学校現場の教員が考える学力とが同じとは限りませんし、ましてや競争原理や自己責任の重圧に苦しんで、勉強したくてもできない子どもが増えている現状においては、テストの点数を見て教育の効果を推し量るというのは、現場感覚として受け入れがたいものがあります。

 かつて、県教委に勤務していたとき、私が起案を上げたときによく上司に「この部分の根拠は何か?」と聞かれました。その際の「根拠」とは、科学的な研究結果などではなく、どんな公の機関が認めているかという出典のような意味でした。一つの文言を使用するにも、例えば文部科学省がこういう通知でこの表現を使っていますとか、県の指針から引用しましたということを示せというレベルでした。

 教育委員会は、行政機関の一つですのでそういう「根拠」を出すことは当然でしょう。国や県が推奨していないことを実施することは許されないからです。

 しかし、子どもたちの学力の向上に資する研究や実践においてはそうした説明責任は二義的な意味合いしか持たないはずです。どういう授業をしているのかを保護者に説明することは大切だとは思いますが、それ以上に大切なのは実質的に子どもの学力を高めることであるはずです。

 エビデンスとは何らかの課題の解決のために、有効な手段を考えるときの根拠となるものです。決して説明責任のためにやるものではありません。

 かつて、2003年に日本では「PISAショック」と言われる現象が起きました。OECDが世界の15歳の子どもを対象に教育的効果を測定するために行われている「PISA調査」の結果が2000年(第1回)に比べて参加国内での順位が大きく下がったことが発端になって、文科省は危機感をあらわにしました。

 特に、読解力の低下が著しいとして学校向けにかなり厳しいプログラムを課したことがあります(まあ、あんまりまともに受け止めなかった学校が多いと思いますが)。

 文科省からすれば、OECDが求める学力については、OECDに先駆けて学習指導要領を改訂し学校現場に示していたはずだ、先生は何をやっているんだ、しっかり効果的な授業をしなさいというわけです(例えば2005年に出された『読解力向上プログラム』には、国語の授業が心情理解に偏っているなど、非常に細かいことまで書かれていました)。

 文科省は単に順位が下がったことで、世間からの批判を恐れ「対策は講じていますよ」という説明責任(言い逃れ?)のために使用したのではないかとさえ思います。そして、責任を学校押しつけたのです。

 哲学者ボルノウは、教育を支えるものは「雰囲気」であると言っています。朝の気分でさわやかに子どもに接する教師の姿が、子どもたちの前向きな態度を培い、さまざまな面で可能性を伸ばすと指摘しています。こうしたことは、決して数値では測れません。

 それに、数学的な数値を基にした教育改革は恣意的になりやすい面があります。もし、経済界の要求を取り入れて企業にとって必要なタイプの人間を育てようとしたとしたら、それを肯定的に示す調査をすればいいわけです。また、同じ調査でも分析の視点を変えれば、結果も違ったものになります。

 量的な調査による客観的なデータは、教育の一部分を分析するには有効でしょうが、その分析は絶対的なものではありません。結局は平均値でしかないのです。量的な調査・研究によって明らかになった(とされる)ことを、学校現場の教員が実践してみて再度フィードバックすることが必要です。それによって、調査や分析を見直し、より効果的な方法を見出す、そういう作業がいるのです。

 どんなに高度な技術をもって分析したとしても、その問いの仕方が学校現場の実態とかけ離れていれば意味がありません。量的な調査研究の内容を決めるのは人間です。だからこそ、どんな調査をするかを考える前に、学力をどう規定するかについてもっと議論すべきだと思うのですが。

(作品No.197RB)

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