なぜ、いじめはなぜなくならいか 仮想講演

いじめがいつごろからあったのかということについては、諸説あって、はっきりしないのですが、最もセンセーショナルに最初にいじめが新聞等で扱われたのは、1980年代だと言われています。まず1980年に立て続けに3件のいじめによる自殺事件が起こり、1985年には鹿川君事件が起こって、一つのピークを迎えたというのが定説のようにいわれています。

 しかし、「いじめ」を扱った最初の研究論文はすでに1971年に『児童心理』という月刊誌に掲載されています。とすると、少なくとも現代的な「いじめ」はそのころから問題にはなっていたことになります。50年以上前のことです。半世紀にわたってこの問題は続いているのです。不思議だと思いませんか?

 だって、現場の先生方はもちろんのこと、各方面の専門家がさまざまな研究や調査を繰り返して、その実態を確かめたり、対策を講じてきたにもかかわらず、半世紀もの長い間根本的な解決を見ないのは、どういうことかと、少しくらいはましになってもおかしくないはずなのに、先日も旭川で悲惨ないじめ事件が起こるなど、一向に改善されたという実感がありませんよね。これはどういうことなんでしょうか。

 今日は、そのことについて考えてみたいと思います。最初に申し上げておきますが、私はいじめの問題の根本的な責任は、先生方にはないと思っています。その前提でお話をします。途中で、学校や先生方の責任であるかのような内容に触れることもあるかもしれませんが、それは最終的に何が原因なのかを説明するための途中経過としてお聞きください。

 さて、私はいじめの研究には二つの段階があると考えています。それは、現代的ないじめとそうでないいじめです。現代的ないじめというのは、その根本的な要因が現在に通じるものです。冒頭で、最初の研究論文が1971年に掲載されたとお話ししましたが、そのときの論文のタイトルは「いじめられっ子。いじめっ子 その心理と扱い方について」でした。これは、現代的とは言いにくい。最初にいじめに着目した功績は大きいと思いますが、いじめっ子といじめられっ子の二者でいじめを捉えている点で、現在のいじめにはあてはまらないと思います。いじめは主に学級を中心とした学校内の集団の中で起こります。特に現代のいじめは、集団の力学のようなものがあって、もっと構造的な問題から発生していると考えられます。

 そのことをはっきりさせたのが、皆さんもよくご存じだと思いますが、森田洋司さんの解明した「いじめの四層構造」というものです。いじめる子といじめられる子の二者だけで考えるのではなく、それを取り巻く、観衆や傍観者を視野に入れた解析です。今でもこの理論は多くのいじめ事象にあてはまることが多く、いじめに関するどんな研究でも、この「四層構造」に触れていないものはないくらいです。文科省のさまざまな通知もこの理論をベースにしています。最も注目されたのは、「傍観者」の位置づけですよね。「傍観者」はそれまでの研究では、その存在すら触れられなかったことが多かったのですが、実は、教室の中でこの「傍観者」の存在が非常に重要で、いじめを支えてしまっていることがこの研究で明らかになったということは、皆さんもよくお聞き及びのことだと思います。

 けれども、意外にそれ以外の部分についてはよく知られていないのではないかと思います。

 ステグマという言葉を聞いたことがあるでしょうか。私は、森田さんの研究で最も注目すべきことはこのステグマだと思っています。ステグマとはもともと負のレッテルを貼るという意味です。それまでは、行動が遅い子(のろい子)、場の空気が読めない子、不潔などの要素を持っている子など、ある面での能力に欠ける子に貼られていたと言われていたのですが、森田氏の研究によって能力の高い子にも貼られることが明確になりました。学校現場で担任をしてきた先生方にとっては、特に珍しいことではないという感覚をお持ちだと思いますが、明確に研究結果として示されたことは非常に重要です。教師の側から見ていわゆるまじめないい子にもステグマが貼られるわけです。総じて言えば、このステグマは、その子の能力とは直接関係なく、目立つ子や異質なものに対して行われることがはっきりしたということです。このステグマ貼りがいじめの実態です。

 それでは、なぜ子どもたちはステグマを友達に貼り付けるのか。

 最初に考えられるのは、ステグマを貼る子の倫理観や道徳観が未発達であるということです。これは多くの人が考えることだと思いますし、あながち間違っているとも言えません。しかし、もしそれだけが理由だとしたら、次々に起こるいじめ事案はクラスの中で限定的な子が何度も繰り返していることになります。ところが、実際は、そういう子がいつもいじめる側に立っているかというとそうとは限りません。立場が逆転し、いじめていたはずの子がいつの間にかいじめられる側に立たされていたということはよくあることです。つまり、その子以外にもステグマを貼る子がいるということです。確かにいじめ事案でしょっちゅう名前が出てくる子がいるのも確かですが、意外な子の名前が出てくることも結構ありますよね。まあ、それだって、その時にいじめる側に立った子の倫理観や道徳観が未熟だったということもできますが、まさかと思う子の名前がでてきたときや、次々に違う子の名前が出てくるような事態の前では、倫理観や道徳観だけですべて説明できるのかと思ってしまいます。そもそも、小学生や中学生で完全に倫理観や道徳観が確立している子がどれだけいるかとも思います。そう考えると、もっと違う何かがいじめを支えているのではないかと思うのです。

 ちなみに、そういう道徳観を高めるのが道徳の授業であり、いじめの問題は結局道徳の授業を充実しなければ解決しないという人がいます。それも間違いだとは思いませんし、最も核になるものであるとは思います。けれども、週1回の道徳の授業でしっかりと心を育てるには、気の遠くなるような時間がかかります。その効果を待っているうちにいじめが深刻化してしまいます。道徳の授業は重要ですが、それだけでいじめを軽減することはできません。

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