「足りない」ということ

今から数年前、100人ほどが集まる講演会に参加したときのことです。テーマは「地域のつながり」。いわゆる参加型の講演会で、いくつかのグループに分かれ、あらかじめ用意されたペンでコメントを書いたり、はさみで紙を切ったりといった簡単な作業が盛り込まれていて、なかなかおもしろい講演会でした。でも、どうもしっくりこなかったことがありました。それは、はさみやペンなどの道具については、「適当に取りに来てください」と全体に声をかけるだけで、配ってくれなかったことです。その上、全て大幅に数が足りないのです。  

こうなると誰が道具を取りに行けばいいのか、何人に一つの割合で道具があるのかなど、わからないことだらけです。正直「気が利かない講師だ」と思ってしまいました。おそらく会場にいる多くの人が同じように感じていたと思います。

 そんなわけで、私たちは最初どうしたらいいかわからないまま黙って座っているだけでした。しかし、そのうち「まず数を数えようか」と誰かが言い出し、配り始めると「そちらの方は足りていますか」とか「私は使い終わりましたので、どうぞ」など、あちこちから声が聞こえるようになりました。

 そして、講演会の後半、講師さんが静かな口調でこう言われました。

「『足りない』って、人をつなげるんです」

「なるほど」と思いました。そうです。講師さんは「わざと」道具を少なめに準備し、細かな指示をしなかったのです。「ペンやはさみが全員分あれば、貸し借りのための会話は必要ありません。お互いのことを気遣う必要もありません。でも、何か足りないものがあるからこそ、人間はそれを何とかしようと知恵をしぼり、協力し合うことができるんです」

私は、ほんの少しでも講師さんのことを悪く思ってしまったことを恥ずかしく思いました。

教諭時代、一般の人(教員以外の人)から「あなたは何を教えているんですか」と、よく聞かれました。いつも私はその問いに戸惑いを感じていました。「国語を教えています」と答えればいいんですが、何とも言えない違和感のようなものがつきまとうのです。それは、「教える」という言葉が教師から生徒への一方向のように聞こえるからです。一方向のみの「教える」は、生徒にとっては受容するだけのものになります。また、一方向による授業は常に与え続けなければなりません。次第に生徒たちは「次に何が必要なんだろう」と考えるのではなく、「次は何を渡してくれるだろう」と受け身になります。そして、受け身になった生徒は、与えられたものが不十分だと感じると、「あれがない」「これがない」「だからわからない」と不平を持ちます。与えすぎないこと、これからの教育では、とても大切なことの一つだと思います。(作品No.48HA)

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