道徳の授業でしばしば「読み物」教材が使われます。特に、道徳が「特別な教科」として扱われ、教科書を使うようになってからは、まさに授業の「定番」といってもいいでしょう。では、なぜ、道徳の授業で「読み物」が有効なのでしょう。
これは、「読み物」が「間主観的」な状態をつくりやすいからです。通常、主観というと個人の内部に存在するものとして考えられますが、「間主観的」とは、この主観を人と人との間に成立するものという立場をとります。つまり、「ある事柄が間主観的であるとは、二人以上の人間において同意が成り立っていることを指す」1)わけです。
道徳の授業に「同意」というのは馴染まない気がするかもしれません。それは、そもそも道徳というものは「正しい」考え方を示すものであって、話し合って決めるというイメージが薄いからです。しかし、以前にも書きましたが、究極的には絶対的に「正しい」真理は存在しないと考えれば、今「正しい」とされていることも、そこに生きる人々の同意によって成立しているといえます。理想的な道徳の授業というのは、この同意の過程を経験させることにあると私は思います。
例えば、いじめについて考えるとき実際に自分の学級で起きている問題をそのまま取り上げると、被害者側も加害者側も相手との人間関係を気にして思うように意見が出せないことがあります。被害者からすると「この後もっとひどいいじめにあうかもしれない」と思うだろうし、加害者側は本当は自分が悪いと感じていても「いじめられる方にも原因がある」とあえて主張するかもしれません。相互の同意としての道徳の授業を成立させるためには、クラスの誰もが話しやすい雰囲気を作り出す必要があります。相互に(あるいは学級全員に)利害関係がない方が意見を言いやすくなります。その点「読み物」教材は、意見の違う者同士がそれぞれに一定の距離を保てるため、様々な意見が出しやすく、同意への道を開きやすくします。そもそも、意見を出し合うことがなければ「同意」は成立しません。距離を置いた「読み物」だからこそ逆にいじめの核心に迫る触れることも可能になります。
確かに、こうした方法は、いじめ問題に対する即効性は期待できません。しかし、「優しさ」や「思いやり」、「命の大切さ」などのさまざまなテーマに対する意識を少しずつ高めることはできます。わずか一時間の間にできることは限られていますが、なぜ「優しさ」などが大切だとされているのかという意味を考えることはできます。この意味を考える時間こそ「内容項目」が社会の中で同意されるに至った歴史的過程を疑似体験することなのです。
以前、県の人権交流センターに勤めておられた方に「人権教育はマイナス(差別や偏見など)を減らすために行い、道徳教育はプラスを増やすために行うものだ」と聞いたことがあります。「同意」による「疑似体験」は、心のプラスを増やす営みでもあります。
また、道徳の時間とは生徒からすれば「最初から答えが決まっている」授業と受け止められやすいものです。そうなると子どもたちは何を発表しても意味がないと感じてしまいます。打開策としては、一時間のうちに一回でもいいから生徒の心を揺さぶる(「えっ」と思わせる)発問を取り入れることです。それによって授業は活性化し「同意」の「疑似体験」に近づくことができます。
そして、教育哲学者の林竹二氏2)は次のように述べています。
「私は授業というものは、一つの事件を起こすことだと言ったり、一つの出会いが成立することだと言ったりしてきた。もう少し突き詰めていけば、その時間を『一緒に生きることだ』と言ったほうがいい。プラトンも教育とは、『一緒に生きること』だと言っている。」3)。
道徳の授業は、適度な距離感と適度な「事件」が一緒になって大きな意義を生み出します。
(作品No.41HB)
1) https://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/intersubjectivity.html児玉聡京都大学文学研究科准教授
2) 林竹二:1906年12月21日-1985年4月1日。日本の教育哲学者。東北大学名誉教授。元宮城教育大学学長。専攻はギリシア哲学。プラトンについての論文がある。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%AB%B9%E4%BA%8C
3) 静岡県総合教育センター「指導充実のために「授業論」を学ぶ」より重引。原典は林竹二著『問いつづけて—教育とは何だろうか』 1981.4.1径書房