野球界で「怪物」というと松坂大輔氏ですが、昔、私の住む近隣にもかなりの怪物がいました。
その「怪物」に出会ったのは20年以上前の県大会新人戦の3回戦。私はS中学校の顧問でした。1回戦で4番の出会い頭の本塁打で1-0で辛勝。2回戦は、それまでノーヒットの子がサヨナラヒット。勢いに乗って3回戦に臨みました。勝てばベスト8。地区大会から失点0で勝ち上がっていたので、ワンチャンスさえものにすれば、勝算は十分にあると思っていました。そこに「怪物」が現れたのです。その怪物の名はK。私は投球練習を見て「なんだこいつは」と思いました。普通、中学生の投げるボールは手から離れる瞬間に、どのくらいの高さにくるかくらいはベンチからみていても見当がつくつくものです。ところが、「これはワンバウンドになる」と思う球が、低めでグイっと伸びてストライクゾーンに入ってくるのです。「これは打てん」と思いました。何度かセーフティーバントを試みましたが、守備も抜群。絶妙のバントもあっさりアウト。そのうち、無失点だったエースが失策絡みで一挙4失点。最終回二者連続二塁打で何とか一点を返すのがやっとでした(よく打ってくれた)。
そのK選手、県内のH高校を経て、ある年高校生ドラフト1巡めの指名でプロに入団。2年後に初先発初完封を記録。その後故障に苦しみ、思うように勝ち星を重ねることができませんでしたが、11年もの長い間プロに在籍していたのはすごいことです。
K選手もそうですが、どんなにすごい素質を持っていても、あるいはイチローのようにストイックに努力を続けられる人でも、どこかで「折り合い」をつけなければならないときがきます。つまり、方向転換する(引退するなど)日が必ずくるのです。私たちは、子どもたちに夢を持てと言い、君たちには無限の可能性があるとも言います。それはウソでも間違いでもありません。でも、時にはこの「折り合い」についても触れてやるべきなんじゃないかと思うのです。プロを夢見る野球少年は全国で何万といるでしょうが、夢が叶うのはほんの一握りです。そのほとんどが、どこかで方向転換を余儀なくされます。でも、その方向転換を「折り合い」とするか「諦め」とするかでは大きく違います。「折り合い」は「意見の違いのある場合など、互いに譲り合っておだやかに解決すること」で「諦め」は「仕方がないと思い切ること」(ともに精選版日本国語大辞典Weblio辞書より重引)。「折り合い」は妥協という意味でも使われますが、それだけでなく、その後どう生きるかという葛藤やそこから生まれる今後の見通しを含んでいます。何よりもそこには自分にしかできない「納得」が含まれています。それが次への一歩につながるのです。
私は夢を持って頑張っている子どもたちに、いつか諦めるときがくるという話をしろと言っているわけではありません。でも、悩んだり迷ったりしている子に「折り合い」のつけ方を一緒に探そうと言うことはできると思います。「折り合い」には納得が含まれますが「諦め」にはすべてを否定しかねない怖さを感じます。
夢や目標を持てない、得意なこともない、そんな自分を弱いと感じ、自らを全人格的に否定してしまう。そのために自己肯定感が持てない若者が増えているといいます。おそらくそれは、ありのままの自分を受け容れられず、いつまでも自分の心に「折り合い」が付けられないために、次の一歩が出なくなっているからではないかと思うのです。
(作品No.20HB)