ある学校のことです。その学校の生徒が知的障害のある人をからかったということが、校長の耳に入りました。校長は、たいそう憤慨し、すぐに全校生徒を集め訓話を行いました。そこで、その校長は怒気を強めてこう言いました。「弱いものをいじめるのは、人間として最低の行為だ。絶対に許せない。」と。
その校長は、自分の学校の生徒が非人間的な行為をしたことを非常に重大なことと捉えて、まさに真剣に生徒に訴えたわけです。この思い自体を否定することはできません。しかし、生徒の中には違和感を覚える者もいました。それは、校長が障害のある人を「弱い者」と断定したからです。
一般に「障害者問題」というとき、障害者に何か問題があるわけではありません。仮に、障害のある人が弱い立場に立たされているとしたら、それは、周囲の偏見や不十分な環境にこそ「問題」があるわけです。「弱い者」という言い方には、どこか「上から目線」を感じます。そうした考え方を掘り下げていけば、障害のある人に対して何かをして「あげる」、という意識が心の奥にあるのではないかと思います。この校長に悪気があったとは思いませんが、一昔前の古い価値観が染みついていたのではないかと思います。この人が若かったときは、「障害のある人=弱い人」という暗黙の了解があったのかもしれません。
どんな人間でも、得意なこともあれば、苦手なこともあります。極端なことを言えば、100mを10秒以下のタイムで走るアスリートに比べれば、私などはカメのようなものです。それを誰も障害とは言いません。また、私は最近、歳のせいで細かい字がよく見えなくなってきましたが、それも障害と言われることはありません。でも、視力が2.0の人に比べれば、見え方が制限されています。私よりもっと視力の弱い人は、眼鏡をかけますし、腰が悪い人はコルセットを巻いたりして自分のできない部分を補おうとします。歩くのが困難な人が車いすを使うのも同じことです。部分的に弱い面をもっていることはあるでしょうし、弱っている人はいるでしょう。でもそれは、現時点でできないことがある、あるいはできなくなった人がいるというだけなのです。そもそも、「弱い」という言葉はあくまでも相対的にしか使えないはずです。
また、弱い面を持っていることを「良くないこと」と決めつける姿勢にも違和感が残ります。自分の「弱さ」を自覚することで、他者に優しくなれることはよくあることです。
体だけではなく、心も同じです。「昔ならこのくらいのことで弱音を吐く生徒はいなかった」と何万回ぼやいても、ほとんど意味はありません。目の前の生徒がそうであると思うなら、その子ができることを少しでも増やせるように支えるしかない。「弱音」を吐く子どもをいったん受け入れたうえで、かけがえのない自分の「良さ」に気づくようにするにはどうしたらいいかを考えていくしかないのです。決して簡単なことだとは思いませんが、少なくとも私たちがその方向を見ていなければ、くじけそうになっている生徒に寄り添うことはできません。
偉そうに言っている私自身、これまで多くの生徒を否定してきました。生徒にためにいつも十分に寄り添ってきたかと問われたら「NO」と言うしかありません。でも、そういう経験を思い起こすたび私に沸き起こるのは、取り返しのつかない「悔い」ばかりです。誰もが「弱い」面を持っている、頭では十分わかっていたはずなんですが・・・。(作品No.30HB)