前回、学校の「丸腰」状態について書きました。そして、少しずついじめについて書いていくとしました。今回は、まず過去の経験を踏まえて私の基本的な考え方について触れておこうと思います。この文章は昨年度自校の職員向けに校長の私が示したものを一部修正したものです。
学級担任をしているとき、学活の時間に「定義づけテスト」いうのをやっていました。黒板に示した言葉を自分なりに定義してみようというもので、例えば、「鉛筆」という「お題」を出すと生徒が「字を書く道具」などと書きます。それを集めて生徒の前で私が読むという、いたって単純なものです。これが結構面白い。最初は目に見える物から始めて徐々に抽象的な言葉(概念)へと発展させます。「優しさ」や「幸せ」など「お題」が抽象的になるほど生徒の回答も多様になります。生徒の持っているイメージもよく表れます。教室全体を「ほーっ」と感心させるものも結構出てきます。
もともと定義とは、「概念の内容や用語の意味を正確に限定すること」(精選版 日本国語大辞典 コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E5%AE%9A%E7%BE%A9-79069)です。例えば、新型コロナウイルスを撲滅するためには、ウイルスがどんなものかという「正体」を知る必要があります。さまざまな分析や解析によって他のウイルスと何が違うのかを突き止め、ウイルスを「限定」することで「正体」が判明し、ワクチンの開発も可能となります。まさにウイルスを「定義」しているわけです。そうやって開発されたワクチンは、あくまでも限定された範囲内でどのくらい効果があるかということがわかるわけです。
ところが、学校における様々な課題、特にいじめについてはだれも明確な定義を持ち合わせていません。これが問題を複雑にしています。確かに文科省は定義を示していますが、現在の定義は範囲が広く、「限定」が非常に難しい内容です。昭和61年度に明記されていた「弱い者に対して一方的に」「継続的」「深刻な苦痛」「学校としてその事実を確認」などの表記がすべて削除され、現在いじめは被害者が「いじめられた」と思うことによって成立することになりました。しかし、いじめられた側にもいじめについての明確な定義があるわけではなく、冒頭の「定義づけテスト」と同様、あくまで個人のイメージなのです。自ずと生徒一人ひとりのいじめの定義もそれぞれ違ったものにならざるを得ません。
文科省が定義を広くとらえるようになったのは、いじめによる自殺など重大な事態をなくすために早期発見、早期対応を緊急課題としたからです。いじめによって自ら命を絶つという数多くの悲劇があったことは忘れるわけにはいきません。しかし、深刻ないじめをなくそうとしたことで、皮肉にもいじめの増減さえよくわからない事態となっています。それぞれに定義が違うものを集計しても正確な経年比較はできないからです。また、明確で統一された限定がないということは、正体がはっきりわからないということです。正体がわからないものをなくすことは、理論上不可能です。
新聞やニュースではよく「いじめ過去最多」などと報じられます。それを見た生徒や親は「やっぱりなくならないのか」と感じ、いじめに対して、より敏感になり、些細なことも「いじめ」だと感じやすくなります。いじめがなくならない隠れた原因の一つがここにあります。
このような状況で私たちにできることは、目の前で起こっていることが生徒にとって望ましいかそうでないかを考えることに集中することだと思います。いじめかどうかという識別よりも「生徒にとって何が良くて、何が悪いのか」を考える方がずっと重要です。
(作品No.18HB)
(追伸)これを書いたきっかけは、生徒間のトラブルが多発するなかで生徒指導担当の先生を中心に、どの事例をいじめとして市教委に報告するかどうかで時間をかけているのを見て、そんなことに時間をかけるのはもったいないと感じたからです。また、学級担任や部活動の顧問が保護者と対応するときに「これはいじめだ」と言われることに対するプレッシャーを少しでも軽減できればと思ったからです。報告についてはできるだけそのまま報告すればいいし、いじめはいじめられたと感じたらいじめなのですから、起こって当たり前です。被害者の生徒や保護者が「いじめだ。どうしてくれるんだ」と強く訴えてきたとしても、「そうです。いじめとして対応します」という姿勢でいればいいのです(実際に保護者にそういう言い方はできませんが・・・)。学校には詳細な対応マニュアルがあります。その通り丁寧に対応すれば、何もショックを受けることはないし、プレッシャーに感じる必要はないと思うのです。そもそも定義による限定ができないのですから、発生件数を気にすることに意味があるとは思えません。これも「困難校」のストラテジー(対処戦略)の一つです。