「子どもはみんな金平糖」

昔 (30年以上前)、部活動の練習中にダラダラしている生徒に「やる気がないのなら帰りなさい」と言ってしまったことがあります。今なら暴言と言われてもしかたがないでしょう。しかも、「帰りなさい」と言いながら、本当はその場に残って一生懸命にやりなさいという言外の意味を込めていたのです。所謂「ダブルバインド」です。生徒は私の意図がわかっているから、ただただそこに立ちすくむしかない状態に追い込まれてしまいます。今思えば、どうしてそのとき生徒を近くに呼んで、「今日はどうしてそんなに動きが悪いのか」くらいのことは聞いてやれなかったのかと思います。

子どもは一人ひとり違った個性を持っています。おとなしい子や活発な子、集中力が持続する子もいれば、長続きしない子もいます。素直に指示を聞く子がいるかと思えば、一回一回「めんどくさい」とか「だるい」とかいう子もいます。また、本を読むのが大好きな子もいれば、とにかく体を動かすことが好きだという子もいます。一人として同じ個性は存在しないといっていいでしょう。私たちは、それぞれの子どもに最も響く言葉を選んで声を掛ける必要があります。

 けれども、子どもを集団で指導しています。一人ひとりに寄り添って、じっくり話を聞き、その子に合った言葉を見つけていくのは至難の業です。時間的な余裕もそうそうあるわけではありません。教師というのは実に大変な仕事です。(そういうことを世間の人にもっとわかってもらいたいと思います)。その上、私たちには、決められたカリキュラムを決められた期間(学年)に完了することが義務付けられています。学習指導要領が法的な根拠(学校教育法第33条、学校教育法施行規則第52条)を持っている限り、その責から逃れることはできません。

 そのため、授業が予定より遅れているときには何とか教科書のここまでは授業を進めないといけないと焦ることがあります。特に、中学校では定期考査があるので、テスト範囲までは何が何でも進めなければ、公平なテストが実施できません。私も教諭時代「この時間が勝負だ」と猛スピードで授業を進めてしまうことが何度もありました(反省しています)。でも、そうした「焦り」が、思わぬ負の効果を生み出すことがあります。

 最近「マルトリートメント」という言葉が注目されています。「マル」(mal)は「悪い」、トリートメント(treatment)は「扱い」という意味で、合わせると「不適切なかかわり」p2ということになります。また、そこには必要な賞賛を与えないことも含まれます。これを教師にあてはめると、「体罰やハラスメントのような違法行為として認識されたものではないけれども、日常的によく見かけがちで、子どもたちの心を知らず知らずのうちに傷つけているような「適切ではない指導」(川上康則著『教室マルトリートメント』(2022、東洋館出版社、p1)となり、世界保健機構(WHO)でも「チャイルド・マルトリートメント」として「子どもの心身の健康・発達。対人関係などに害をもたらすこと」と定義されています。

川上氏によれば、マルトリートメントには「やる気がないんだったら、もうやらなくていいから」「勝手にすれば」「すきにすれば」「何回いわれたらわかるの?」(同書p35)などといった教師の言葉かけ(川上氏はこれらを「毒語」としています。)が含まれるそうです。そして、そういう「毒語」を発してしまう背景には、教師の「焦り」があると指摘しています。

では、私たちは子どもたちをどのように見ればいいのでしょうか。そのヒントになるのが東京都小学校学級経営研究会2010年で示された「子どもはみんな金平糖」(前掲書p155重引)という視点です。金平糖はとげのような突起がたくさんあります。これを子どもにあてはめると、私たちはこの突起を削って丸くしてみんな同じように行動させようとします。これは、集団の規律を守るためには、ある程度必要なことです。いじめが最も起きやすいのは規律がなく無法地帯となってしまった学級だと言われるように、それぞれのわがままを認めていたら収集がつきません。また、  

どの子に対しても同じように接しようとするとどうしても我慢させないといけない場面を避けられません。でも、この突起をその子の個性だと考えれば、実は個性を削り取っている可能性もあるのです。

そこで、すべての子どもに同じように接し、個性を重視するためには、とげの多い金平糖の突起部分を削るのではなく、それをすべて包み込む円の中に入れるイメージを持てば、ばかなり違ったものになるというわけです。「金平糖」を囲む円は学級全体が個性を互いに認め合える雰囲気のことです。同時に、教師が一人ひとりをありのままに認めようとする視点でもあります。これだけでは抽象的で分かりにくいですが、教師が言葉や所作の端々に一人ひとりを大切にしているという気持ちを表していけば、学級の規律を崩すことなく、この雰囲気はつくれるのではないかと思います。

 具体的には、子どもが当たり前のことをしたときに「ありがとう」と言うだけで教室の雰囲気は大きく違ってきます。また、子どもの呼び捨てをやめるのも効果的な方法です。子どもを呼び捨てにすると、その後に続く言葉がどうしても厳しくなったり、命令口調になったりします。「〇〇(子どもの名前)!」と大きな声で言った後に「△△してください」とは言いにくいものです。テストや通知表を手渡すときも無言で投げ出すように渡すのではなく、「はい、どうぞ」と一声かけるだけでも、もらう方のイメージは随分違ったものになります。そうした教師の一つ一つの言葉や所作によって、子どもは自分たちが大切にされているという空気を感じます。そういう空気感を大切にしたいと思います。

 かつて、県の研修所に勤務していたとき、当時の所長に、ある資料の提出を依頼されて届けたとき、両手を首の下あたりで合わせて「ありがとう」と言ってくださいました。その所長は、ほんの些細なことでも自分のために何かをしてくれた人には、同じようにされていました。教育行政の世界は厳格なタテ社会です。上位下達が当たり前の世界で研修所のトップが、なりたての指導主事に手を合わせて礼を言うなどまずあり得ません。しかもその人は県の教職員課長まで経験された方でした。当時の私からすれば雲の上の人です。そのとき、私は、駆け出しの身でありながら「大切にされている」と感じました。仕事には厳しい方でしたが、とても温かいものを感じました。

(作品No.151RB)

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