「名は体を表す」ということわざがあります。「名はそのものの実体を表している。名と実は相応ずる」1)という意味です。教育の世界でも「名」は重要です。
例えば、現在の特別支援教育という名称は、「2001年1月の省庁再編に際して、文部科学省初等中等教育局特殊教育課から文部科学省初等中等教育局特別支援課に変更され、採用された」2)のが始まりだそうです。ただ、法的に根拠を持つのは、平成18年12月に「障害者の権利に関する条約」が国連総会で採択されたのを受けて「学校教育法等の一部を改正する法律(平成18年法律第80号)」が平成18年6月21日に公布(平成19年4月1日施行)され、それまでの養護学校が特別支援学校と改称されたのをもって成立しました。「特殊教育」が「特別支援教育」に変わると、かなり受け手のイメージも変わります。「特殊」には「特別」という意味もないではないですが、主に「性質・内容などが、他と著しく異なること。また、そのさま。特異。」3)という意味となり、どこかマイナスのイメージが残ります。それに対して「特別支援教育」の「特別」は比較的少数を対象とするという意味では似ているものの、「特別感がある」のような使い方でもわかるように、必ずしもマイナスのイメージで使われる言葉ではありません。また、「特別支援教育」という概念は「特別な子に何かを支援する」教育という意味ではなく、「特別な支援が必要な子」への教育を指します。これは似て非なるものです。前者の解釈だと「特別な子」がいることを前提とした視点となってしまいます。特性の有無にかかわらず、どの子も同じ尊厳を持った存在であることを大切にするなら後者の表現が妥当でしょう。
私は「名は体を表す」ことよりも「実体に応じた名前をつける」ことの方が大切だと思います。「名」を「実体」(本質と言ってもいいと思います)にできるだけ近づけることは、様々な偏見を生まないために非常に大切なことです。
そう考えたとき、私がどうしても納得できない「名」があります。それは、「適応指導教室」という言い方です。今もこれを使用している自治体は結構あります。しかし、不登校傾向の子どもを学校に「適応」させる、しかもそれを指導するということは、裏を返せば「適応」できない子は「指導されるべき存在」だということになります。学校に「適応」するのが絶対的に正しいことだとする学校側の思い上がりのようなものを払拭できません。不登校が問題なのは、学校に登校できないことではなく、その状態の子が不当に苦しんでいることにあります。「不当に」と言ったのは、不登校になる原因は一人ひとり違うにしても、その子にとって「行きたい」場を提供できなかった学校の責任を子どもになすりつけているように感じるからです。
最近では、教育支援センターと呼び名を変えている自治体も増えてきました。なんだか漠然とした言い方ではありますが、「適応」という言葉を使うよりははるかにましです。
近年の教員による暴言や体罰、不適切な関わりの根底には、子どもは学校にきて当たり前、教師のいうことに素直に従うのが当たり前といった上から目線の接し方がまだまだ多く残っているからだと思います。「適応指導教室」や「適応教室」という呼称を残している自治体は、すぐにでも変更すべきだと思います。名前が変われば、その理由が気になります。そこで知る理由が教師の意識を変えるきっかけになると思うのです。(作品No.166RB)
- https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%90%8D%E3%81%AF%E4%BD%93%E3%82%92%E8%A1%A8%E3%81%99/
- 平原春好・寺崎昌男編(2002)『教育小事典』(学陽書房、p241)
- https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%89%B9%E6%AE%8A/