「努力することは大切だ」というのは、誰もが認めることでしょう。私も学級担任や部活動の顧問として何度も子どもたちに訴えてきました。そんなとき「努力は必ず報われる」という言葉をセットにしていました。そうしないと説得力がないからです。でも、「努力」と「報い」をセットで語ることにはずっと違和感がありました。「本当に努力は必ず報われるのか」というためらいです。
ちょっと古いデータではありますが、2007年にベネッセ教育総合研究所が行った「学習基本調査」によると「日本は、努力すれば報われる社会だと思うか」という問いに、「そう思う」と答えたのは、小学生68.5%、中学生54.3%、高校生45.4%、大学生では42.8%だったそうです。年齢が上がるについて肯定的な意見が減少しているのは、少しずつ、現実が見えてくるということでしょうか。それにしても、中学生の半分近くが努力は報われないかもしれないと考えているというのは、無視できないデータです。
これは、私の推論にすぎませんが、こうした傾向は「努力は報われる」というときの「報い」の意味を「目に見える結果」に求めすぎてきたからではないかと思います。
高度経済成長の真只中であれば、今、努力すれば将来必ず自分にとって素晴らしい人生が待っていると信じることができました。だから、大人たちの「今ちゃんと勉強しておかないと将来困ったことになるよ」という言葉もそれなりに現実感を持って伝わったのだと思います。しかし、バブルの崩壊で経済がほとんど成長しなくなり、滅私奉公の精神で会社に忠誠を尽くしてきた人がリストラの憂き目にあう悲劇があちこちで起きました。終身雇用というゴール(結果)を信じて真面目に勤めてきた人たちにとっては、努力や勤勉を否定された気がしたでしょう。そう考えれば、人びとが先のことよりも「今」を充実させたいと考えるようになったのはごく自然な流れといえます。少し前に「リア充」という言葉が若者を中心に流行ったのもそうした生き方を肯定するものだったのだと思います。若者はいつの時代でも時代の空気を最も敏感に受け取って生きています。それは、職業人としてだけでなく、個人としても豊かな人生を築いていきたいという前向きな感情でもあります。こうした生き方に対して「目先のことばかり考えてどうするんだ」と彼らに説教しても、おそらく何も伝わらないでしょう。
私は、努力することの大切さを否定したいのではありません。むしろ、今まで以上になぜ努力は必要なのかを子どもたちに訴えていく必要があると考えています。ただ、これまでのように「目に見えるご褒美のため」として意味づけるのではなく、「今」の自分を充実させるために必要なのだと訴えるべきだと思います。
オリンピックに3大会連続出場を果たした、あるトップアスリートはこう言っています。
「たとえ結果が思うように出なくても、努力は無駄だったと思ってはいけない。何かに向かっていたその日々を君は確かに輝いて生きていたではないか。それが報酬(ごほうび)だと思わないか。」
私たちは、部活動などで大きな大会に出場したり、好成績を上げたりした生徒やその部に対して、あまり深く考えることなく「よくがんばったね」と言います。でも同時に、そうした「目に見える結果」が出せなかった子どもたちに、どういう言葉が用意できるかを考えておかなければいけません。それを準備した上で、「結果」を残した子どもたちに賞賛の言葉をかけることが大切だと思います。努力は結果を伴うから意義があるわけではないのです。
「目に見える結果」を「報酬」とする考え方は、ときに子どもたちを追い込んでしまいます。経済的格差や貧困が問題視され、ヤングケアラーと呼ばれる子どもたちが増えています。努力できない環境のなかで生きざるを得ない子が増えているのです。しかも、ある研究によれば、皮肉にもそういう子どもたちの生活満足度が上がっているといいます1)。それは「結果が出ないのは自分の努力が足りないからだ」と受け入れて、報われることを端から考えてもみないからだというのです。そうした自己責任としての努力観を子どもたちに内面化させたのは、他ならぬ私たち大人です。私たちは「努力しなければ結果は得られないよ」という、どこか否定的なイメージを伴う言い方から、「努力は自分の人生を豊かにしますよ」という前向きな言い方に変えていく必要があると思います。
(作品No.134RB)
1)土井隆義(2021)『「宿命」を生きる若者たち 格差と幸福をつなぐもの』岩波ブックレット(初版は2019)