最近、『教室マルトリートメント』(東洋館出版社、2022)という本を読みました。著者は、東京の特別支援学校主任教諭の川上康則氏。マルトリートメントとは、「不適切なかかわり」全般を指す言葉で「「マルトリートメント」(不適切な関わり)という概念そのものは、海外ではチャイルド・マルトリートメント(child maltreatment)という表現で広く知られて」(同書p2)いるそうです。malは「悪い」、treatmentは「扱い」を指し、総じて「不適切な養育」「避けたいかかわり方」(同書p15)となります。欧米や国際社会では広義の子どもへの不適切なかかわりすべてをさす概念だといいます。これが教室で行われた場合「教室マルトリートメント」(川上氏の造語)となります。
例えば、「やる気がないんだったら、もうやらなくていいから」とか、「勝手にすれば」といった突き放した言い方や「誰に向かってそんな口のきき方をするんだ?」といった質問形式で子どもを追い込む言い方です(同書p35)。川上氏はこうした言い方を「毒語」と命名しています。
まず私が驚いたのは、この本を書いた人が特別支援学校の先生であるということです。本来なら、最も子どもに寄り添う姿勢が求められる校種でさえ、こうしたことが起こっているのです。まさに一般の小中学校では言わずもがなでしょう。
非常に残念なことですが、私の経験からしてもこのような教師の言葉は日常的に使われていると言わざるを得ません。それどころか、こういう物の言い方を一つの技術として若い教師が引き継いでしまっているのが現状です。ごく普通の言い方としてまかり通っています。もし、「こういう言い方が問題になっていますよ」と先生方に伝えたら、「じゃあ、言うことを聞かない子をどうやって指導するんですか」と食ってかかられるかもしれません。そのくらい(あくまで私の肌感覚ですが)当たり前の光景となってしまっているのです。
最近、教師の暴言が問題になっています。有形力の行使でなくても「体罰」として扱われるようになりました。しかし、殊、中学校においては部活動を中心に生徒の人格を否定するような暴言も未だなくならず、それによって深く傷つき、不登校になってしまう子も増えています。それは、直接怒鳴られた子だけではなく、周囲の子にも多大な影響を及ぼしています。クラスの中で大声で叱責される子を見て恐怖心が生まれ、担任が怖くなって学校に行けなくなる子も少なくありません。その事実をどう受け止めればいいのか。「最近の生徒は普段から叱られていないからだ」とか「耐性が欠如している」とかいう教師もいます。しかし、実際に苦しんでいる生徒がいるという事実を私たち教師は認めなければいけません。
今、傷つきやすい子が増えているのは確かでしょう。傷つきやすいから弱いというのではなく、子どもの感性が変わってきているのです。「怖い」と感じる基準は個人によって違います。「怖さ」を感じるセンサーが敏感になっている子が増えたということではないかと思います。そしてそれは、社会全体が変わってきている結果でもあります。そう考えると、この問題は学校だけで解決できるものではありません。
最も効果的な方法は、教員に時間的な余裕を与えるシステムを構築することだと思います。例えば、学級担任を二人制にするとか、必ず複数で授業に入るとかというシステムが実現すれば、子どもの変化に気づきやすくなるでしょう。しかし、そんなことはすぐにはできません。ただでさえ教員不足ですし、予算もかかります。一教員には、手が出せません。
ならば、まずは教師自身の視点を変えるしかありません。その視点とは、物事を「俯瞰」することです。目の前で起こっていることだけに注目するのではなく、その背景にまで視野を広げることです。そして、今まで自分の中にある「子ども像」を一旦、括弧に入れてみることです。自分の子ども像は経験があるほど変化させにくくなる面があります。しかし、それは時として、子どもをありのままに見る目を曇らせる原因にもなります。「私の経験から言って、この子がわがままなのは親の愛情不足だ。」と決めつけるのは簡単です。でも、その答えは、目の前の子に十分に寄り添ってからしか出せないものです。最初から自分の側に答えを持ってしまうと、そこから抜け出せなくなり、一旦否定的に評価してしまった子に対しては、いつまでも否定的な見方をしてしまうことになります。
寄り添うというと、ずっとそばにいてじっくり話をきいてやるというイメージが先行しがちですが、物理的な距離は必須の条件とは言い切れません。遠くから送られてくる教師のアイコンタクト一つで、子どもは寄り添ってもらっていると感じることはできます。要は、「指導を行なう立場の前提として、「何を言うか」「何をするか」よりも「どんな態度でその子の前にいるか」(同書p31)が大切なのです。
これまでは、学校に対するまなざしが学校を支える力となっていました。しかし、今は必ずしもそうとは限りません。少しでも何かあったら学校に文句をいってやろうと、手ぐすねを引いている保護者も少なからずいます。子どもも社会の多様化の影響をまともに受けているので、「なぜ、自分がやりたいと思ったことができないんだ」という発想になりやすくなっています。その姿は、いかにもわがまま勝手に見えます。そうした状況を考えれば、まさに教師受難の時代なのかもしれません。
私たちは今まさに問われています。「あなたは、こういう時代の教師としてどうあるべきだということをどのくらい深く考えていますか」と。これまでの指導法が通用しないからと言って、子どもや保護者を悪者にするのは、「思考停止」状態になっている証拠です。どんなに探しても「正解」は見つからないのかもしれません。でも、何が、より「正解」に近いかを考えているかどうかは、確実に子どもに伝わると私は思います。
寄り添うことができる教師とは、「正解」を知っている教師のことではなく、子どもたち一人ひとりにとっての「正解」とは何かを、深く考えている教師のことだと思います。
(作品No.156RB)