教員対象の講演会や研修会で、講師の話が終わった後に「何か質問があればどうぞ」という場面があります。そこで手を挙げるのはちょっとした勇気がいります。だから、それができる人はすごいと思います。でも、時々「ちょっとそれは・・・」と思うこがあります。例えば、質問をするための前置きが長いとき。質問自体は簡単なのに、「私の学校では今こういう取組をいついつから始めていまして・・・」で始まって、その取組の成果を「とうとうと」述べたあと、ようやく質問にたどり着くというパターンです。「いらち」の私は「早よ質問せいよ」とイライラしたりします。
また、以前経験したことですが、ある講演会の謝辞を小学校の定年間近の校長がされました。ところが、講演の内容に対する自分の意見を「とうとうと」話すにとどまらず、仕舞いには「私はもっとすごいこともやっています」という「自慢話」になってしまいました。会場全体がしらけてしまったのはまだ許せるとしても、講師の先生があきらかに不機嫌になってしまったのです。進行役の人は実に困った顔をしていました。確かに、講師の話を漠然と聞いていると謝辞にならないので、いろんな挨拶の中でも謝辞というのは一番難しいとは思います。でも、文字通り「感謝の意を表す」のが謝辞ですから、講師を置き去りにしたのではまさに本末転倒。またそういう人に限って自分は話がうまいと思っているから始末が悪い。反面教師として肝に銘じました。得意だとか慣れているからというのが実は一番危ないのかもしれません。車の運転でも「俺はベテラン」と思うのが一番危ない。逆にスキーの初心者は骨折しないと聞いたことがあります。
さて、こうした「自慢話」をしたがる人をどう理解すればいいのか。それを考えるのにとてもいい本に出会いました。以下に、抜粋します。
「「苦労が身になる」という言葉がありますが、「経験」をした人は苦労が身になりますが、一方「体験」止まりの人は、苦労は身にならず「勲章」になります。苦労が「経験」になっている人は、よほどこちらが質問しない限りは、自分からは苦労話をしないものですが、「体験」の人の場合は、こっちが聞いてもいないのにうんざりするぐらい苦労話をしてくれます」1)
著者は森有正の著2)を引用して「経験」とは、あくまで未来に向かって開かれているものであって、まったく新しいものを絶えず受け入れる用意ができているものとした上で、「≪生きているもの≫を「経験」と呼び、硬直化した≪死んでいるもの≫は「体験」と呼んで区別しようとした」のが森有正の理想であると述べています。つまり、新しいものを取り入れようとせず自分の考えに固執する人ほど聞かれもしていない「自慢話」を「とうとうと」話すのです。
人の話し方をとやかく言うお前はどうなんだという声が聞こえてきそうです。私は校長になる前も、研修所や市の教育委員会で話すことが多かったのですが、人前に立つたびに緊張していました。自分のイメージ通りに話せたことはほとんどありません。ましてや自分が話がうまいなどと思ったことはありません。それでも学級担任をしていたころ、生徒が食い入るように聞いてくれることが何度かありました。そんなときの充実感や達成感は何物にも代えがたいものがあります。
恐らく、こうした充実感や達成感は、その話が自分の中で「経験」に近いものだったのではないかと思います。ただ自分が話したいことを勝手に押し付けているだけの単なる「体験」による話は、聞いている子どもにとっては苦痛でしかありません。自分の話が単なる「自慢話」なのか、「経験」として伝わる話なのかは、その内容が子どもたち(聞く側)の未来(明日や明後日と言った近い未来を含みます)につながるものかどうかで決まるのではないかと思うのです。そして、その答えはいつも子どもたちが出してくれています。まずはそのことに気付く姿勢を持つことです。聞いている子どもたちの様子や態度といった目に見えるものだけではなく、一種の雰囲気(空気と言ってもいいと思います)のような「目には見えないもの」を敏感に感じ取ろうとする姿勢こそが「経験」と「体験」の違いを見分ける唯一の方法だと思うのです。
(作品No.21hb-2)
- 泉谷閑示『「普通がいい」という病』講談社現代新書、2006.10.20、p199
- 森有正『生きることと考えること』講談社現代新書