「そもそも教」の信者として

とかく理屈っぽい人は嫌われます。そういう人は、すぐ「そもそも〇〇というのは・・・」と語りはじめます。そういう言い方は「そもそも論」と呼ばれて敬遠されがちです。私は最近まで学校現場にいましたが、そういう人が職員会議で手を挙げた瞬間、職員室の空気が一変するのを何度も経験してきました。

「得意の『そもそも論』が始まるぞ」という空気感。それも、長い時間かけた結果、ようやく結論が出ようかというときに出てくる「そもそも論」は、それまでの議論を振り出しに戻してしまいます。徒労感は半端なものじゃないでしょう。

「そもそも論」者は結構たくましいので、「理屈はいいから結論を言え」という冷たい視線を気にすることはありません。あなたは「そもそも教」の信者か? と思ってしまいます。そして「そもそも論」者は、「たいした仕事もできないくせに理屈だけは一人前だ」という烙印を押されることになります。みんな忙しい。ありがたくて役に立たないお説教を聞いている暇はありません。

 こんなことがありました。職員会議で校長が結論めいたことを発言したとき、一人の「そもそも論」者が反論を始めました。何とその校長、話が終わらないうちに一喝したのです。

「ぐちゃぐちゃ理屈をこねるな。黙っとれ!」

 気持ちがいいくらい、はっきりと言い切ったのです。校長の勢いに押された「そもそも論」者は沈黙するしかありませんでした。

「そもそも論者」を否定する人は、以下のような本音を持っています。

「偉い学者さんは、学校現場のことが全然わかっていない。だから、偉そうに理想的なことばかり言う。その割に、具体的にどうすればいいかについては何も語らない」。

 こうして「そもそも論」は、「現場」で否定され続けてきました。

 確かに今の学校には余裕がありません。学校にはすぐにでも解決しなければならない問題が山積みです。「いじめ」、「不登校」、「保護者対応」、「働き方改革」等々。そうした学校現場で教員たちが求めているのは、ありがたい説法ではなく、目の前で起こっている問題に対する具体的な方策なのです。

 世の中は多様化が急激に進んでいます。それは、「チーム学校」でまとまろうとする人からすれば多様化は面倒な現象でしょう。一人ひとりの個性を尊重しようとすると収拾がつかなくなるのは目に見えているというわけです。

「個」が最大限に尊重され、何でも自由にできる(ように思わされている)世の中は、選択肢が多くなるという利点もあれば、何を選べばいいのかわかりにくくなり、人びとを迷わせます。例えば、最近夢や目標が持てない小中学生が増えたと言われますが、それは選択肢の多さの前で子どもたちが立ち往生している姿です。

 また、多様化に対応しようとして、一つ一つの事象に一つ一つ具体的な対応策を考えるのは、まるでもぐら叩きのようなもので、教員は次から次へと現れる見知らぬ現象に振り回されてしまいます。教員はどんどん忙しくなり、教員志望者が全国レベルで激減し、学校は教員不足のためさらに忙しくなっています。

 それでも私は敢えて言います。「そもそも論」は学校を救う最終手段であると。何を隠そう私自身が「そもそも教」の信者なのです。一喝された教員とは私のことです。

 実は、現状を打破する原動力となる唯一の武器が「そもそも論」なのです。そもそも(出た!「そもそも論」)、教員が近視眼的にならざるを得ないのは、多様に広がる一つ一つの「価値」を俯瞰する視点を持てないでいるからです。そうした視点は、いわば多様化を包括するまったく別次元の世界を私たちに見せてくれます。今こそ、私たちは学校とは何か、公教育とは何のためにあるのかといった原点に戻ることが必要です。つまり、日々取り組んでいることに対して「そもそも」何のためにやっているのかと考え直してみること、それが「俯瞰する」ということなのです。

 多くの課題を抱え、その上に新たな取り組みを要求され続けている学校。このままでは、学校という組織そのものが崩壊してしまいます。目の前の事象に一喜一憂するのではなく、10年後、20年後の学校を俯瞰的にイメージした上で、今、ここで何が大切なのかを考えることが必要です。

 思い切った学校改革が急務ですが、そこで見えているものが枝葉末節であることに気づかないまま進めてしまえば、学校(公教育)は空中分解してしまいます。公教育を経済の理論で片づけようとする人たちの格好の餌食になるでしょう。

 すでに、改革を進めて「実績」を挙げたと主張する人の中には、学力の保障を学習塾に任せ、学校側が塾の邪魔にならないことが必要だと主張する人さえいます。それが本当に、未来を見据えた「俯瞰」から生まれたものなのか、未来を閉ざす枝葉末節に過ぎないのかを私たちはもっと丁寧に吟味していかなければなりません。改革は必要です。でも、拙速であってはなりません。

「そもそも教」の敬虔な信者としては、強くそう思うのです。

(作品No.210RB)

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