―教員の不祥事について考える その2ー

前回、体罰やセクハラについて書きました。基本的に私はこういうことは厳しく「処理」すべきだと書きました。「処置」や「処罰」ではなく「処理」と書いたのは、できるだけ早くこういう教員を学校から切り離すよう粛々と事を進めるべきだと思うからです。

 ただ一つ気になることがあります。

 それは、最近、小学校の「荒れ」が増えていると感じることです。私の地域だけの傾向かもしれませんが、授業中立ち歩いたり、奇声を発したり、暴れたりする児童が小学校で目立ってきているのです。1980年代半ばがピークだといわれる中学校の「荒れ」が、今小学校で広がりつつあります。当時の中学校では、他の生徒を守るために(良い悪いは別として)、教員は少々手荒い手段を使ってでも体を張って止めに入っていました。そうでもしないと真面目に頑張っている生徒を守れなかったし、世間もある程度厳しい指導を求めていました。それほど学校の中は荒れ放題だったのです。

 でも、小学校における「荒れ」の場合、対応はかなり難しいと思います。時代も変わり、価値観も多様化しています。それは望ましいことです。でも、小学生が荒れた行動を起こした場合に、これといった対処法はいまだ確立されていません。

 マスコミは生徒が被害者になったときには大きく扱いますが、教員が生徒によって傷つけられたケースはほとんど報じません。例えば、特別支援学級の担任なら、おそらく日常的に児童から傷を負わされているでしょう。これは児童の暴力とは言えません。自分の感情をコントロールすることが苦手なために、暴れるという行動でしか表現できないのですから児童が悪いわけではありません。そこは誤解のないようにしていただきたいと思います。

 とにかく、突発的に起こす彼らの行動は一刻も早く収めなければなりません。そのとき「力づく」以外の方法で制止することは可能なのでしょうか。たとえ「力づく」であっても、暴れている児童の行動を制してやらないと、その子を加害者にしてしまいます。感情的になって投げた鉛筆やはさみの先が近くの児童の目に刺さるようなことが起きないとも限りません。それでもしその子が失明でもしたら、暴れていた子は一生その重荷を背負うことになります。暴れている児童に何らかの特性があるならなおさらです。特別な支援が必要な子は、これまで何度も何度も周囲から否定されてきた経験を持っています。だからもともと自尊感情が低いことが多いのです。その上、取り返しのつかないレベルで人を傷つけてしまったら、それこそ自責の念で自尊感情はボロボロになってしまい、立ち直れないほどの心の傷を負うでしょう。

 私はそういう子の保護者によくこんな話をしていました。「あなたのお子さんは、感情が高ぶったときに激しい行動を起こします。しかし、私たちにとってあの子は他と同じように大切なのです。だからこそ、私たちはご両親と協力して、あの子を絶対に加害者にだけはしてはいけないのです。」と。実際、そういう話をして、それまで子どもにほとんど無関心だった父親が、母親に子育てを任せっきりにしていた態度を改め、子どものためにいろいろと動いてくれるようになった例もあります。

 こうしたことは、通常学級でもたびたび起こります。教員はそうした場合、不安やときには恐怖すら感じながらも子どもと必死にかかわっているのです。近年、教員の働き方改革が話題になることが多くなり、過酷な状況の中で、新採用の若い教員が一年を待たずに退職してしまう事例が増えています。その主な原因は、教員の長時間労働だと言われていますが、本当の原因はそれだけじゃないのです。子どもへのかかわり方がわからず途方に暮れてしまっていることも大きな原因の一つなのです。

 しかし、「私は子どもが怖いから教員をやめます」などとは絶対に言えません。そんなことを言ったら周囲から何を言われるかわかったものじゃありません。明らかな不祥事を起こしてしまった教員には厳罰が必要ですが、真摯に子どもと関わろうとしている教員に一つでもいいから有効な方策を与えなければいけません。

 これを書いているときに、インターネットで次のようなニュースが流れました。

「5時間目の授業中、男児のクラス担任の女性教諭(54)が、「学級が落ち着かない」と職員室に連絡した。教頭が様子を見に行くと、男児が机に立てた鉛筆を手で払ったり、床に置いた水筒に座ったりしていた。教頭は口頭で注意をしたうえ、鉛筆を取り上げ、水筒を足で払って授業を受けさせようとしたが、男児が再び水筒の上に座ろうとしたので、腕を強く引っ張って廊下に連れ出し、放り投げたという。男児はその際、机やいすに足や背中がぶつかり、さらに放り投げられた際に尻餅をついたという。」(「小学校教頭が3年男児を放り投げる 愛知・東海市教委が謝罪」 10/4(火) 7:50配信 朝日新聞デジタル)

 市の教育委員会は、教頭の行動に行き過ぎた点があったとして謝罪の記者会見を行っており、当該教頭に対しても何らかの処分を考えているようです。

 しかし、ここに出てくる教頭は教員にとってはとてもありがたい人だったのではないでしょうか。教頭は教員のSOSを受けて、円滑に授業を保障するためすぐに教室に駆けつけています。管理職が駆けつけるということは「私が責任をもつ」という決意の表れです。いい加減な教頭であれば、他の教員を教室に「派遣」したり、忙しいことを理由に放置するでしょう。緊急事態だからこそ学級担任はSOSを出したわけですから、迅速な対応が求められるのに、まず校長に相談して指示を仰いでからでないと動かない教頭も少なくありません。校長に知らせておけば、何かあっても最終的な責任を自分が負うことはないからです。

 でも、この教頭はすぐに教室に駆けつけています。確かに、本人も言っているように「感情的」になって、児童の水筒を足で払ったり「放り投げる」(どの程度かはわかりませんが)行為はやりすぎだったかもしれません。でも、この事例を前回取り上げた高校の顧問(高校1年生に対して顎が外れるほどの有形力の行使をした顧問)と同じ俎上に載せることはできません。私が最も恐れるのは、単純に「なんてことだ、教諭だけでなく教頭まで体罰を平気でやっているのか。いったい学校はどうなっているんだ」という文脈でとらえられてしまうことです。また、「学級担任がどうして自分で収められなかったのか。50歳を過ぎたベテランが情けない。力量不足だろう。」と一蹴されてしまうことも危惧します。果たして、このケースの場合教頭が最後まで冷静であったとしても、根本的な解決方法はあったのでしょうか。

 報道内容から判断する限り、この児童はかなり反抗的な態度を示しています。それが「自分の水筒を足で払われた」ことに対する怒りだったのかもしれませんし、普段の学級担任との人間関係も影響しているかもしれません。報道内容だけでいろんなことを判断するには無理があります。また、いかなるときも教員が児童を悪者扱いするのは許されません。それでもあえて言うなら、こういう場合にどんな対処方法がこれ以外にあったのかということです。教頭を一方的に非難する人は、具体的な(有効な)手段を示さなければなりません。

 通常考えられる対応としては、駆けつけた職員(この場合は教頭)があくまでも冷静に児童に接し、少々荒っぽい児童の言動を前にしても声を荒げることなく対応し、本人の納得を得て教室以外の場所に連れていき、クールダウンの時間を十分にとってからじっくりと話を聞く時間を確保することでしょう。けれども、そんなことがいつもできるとは限りません。

 万一、今回のケースで児童が限度を越えた暴力行為に及びそうになった場合、教員に「力づく」以外の方法はあったのでしょうか。それさえ許されないとしたら教員は一体どうすればいいのでしょう。私なら、児童の背後に回って体を抱え込み、とにかく他の児童に被害が及ばないようにするでしょう。でも、これも「力づく」の一つです。後ろに回るのは、前から行けば当該児童の手や足の洗礼を受けてけがをする場合もあるからです。それを防ぐには背後から抱え込む必要があるのです。それでも児童は私を振り払おうとして必死になり、頭突きで私の顎をねらってくるかもしれません。実際に私はその洗礼を何度も受けました。小学3年生といえども全力で向かってこられれば、こちらも無傷でいられないのです。私たちは、暴れる児童のためにも絶対に大きなケガをしないようにしなければなりません。当然周囲の他の児童もケガをさせるわけにはいきません。

 学校現場の経験のない人にぜひわかってほしいのは、教員はどんなに児童から攻撃されてけがをしてもどこにも訴えるところがないということです。特に、体格的にも体力的にも優位である教員が幼い児童に責任を負わせるようなことはできません。その日収まっても次の日にはまた同じことが起こる可能性は十分にありますが、だからと言って教員は、その児童を翌日から教室に入れないわけにはいかないのです。その子にも学習権はあるのです。だからこそ、教員は苦しんでいるのです。

 こうした問題に対する有効な手段が成立しないのは、今の学級制度があまりに強固であるからです。明らかに制度疲労を起こしているのに、それに従うしかない状況がすべての原因なのです。

 今回の場合、教育委員会は立場上、謝罪するしかないでしょう。でも、実際は毎日のように教員は児童によって傷を負わされているのです。それを労務災害として訴える教員はほとんどいません。それは教員であることのプライドでもあるのです。子どものためなら少々のことは我慢しようという切ないまでの真摯な態度の表れなのです。だから授業中立ち歩いて授業の妨害をし、教員を教員とも思わない言動を繰り返し、教員から注意を受けるとパニックになって暴れ出すことがあっても「教員」として誇りをもって子どもに接しようとしているのです。それが正しいことかどうかはわかりませんが、せめてそういう教員の思いを受け止められる社会であってほしいと思うのです。そのためには、学級を普段からもっと柔軟に運用できるよう制度を整えてほしいと思います。

 だからこそ、そうした本質的な議論を一瞬で無駄にしてしまう、前回挙げたような「暴行」を確信的にやってしまう教員が許せないのです。そんなことをするから、学校は教師の資質や意識のレベルばかりを問われ続けた上に、正解のない問題を解き続けなければならないという悲劇が延々と続いてしまうのです。

(作品No.171RB)

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